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2007年01月29日(月) ■ |
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「書いている途中で行き詰まる人」への偉大な脚本家の言葉 |
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『脚本家―ドラマを書くという仕事―』(中園健司著・西日本新聞社)より。
【橋本忍(1918〜)は、日本を代表する偉大な脚本家(シナリオライター)です。 映画『羅生門』『七人の侍』『生きる』『白い巨塔』『砂の器』、そしてテレビドラマでは『私は貝になりたい』など、日本の映画史、テレビドラマ史に刻み込まれる名作を書いた脚本家です。その橋本忍のお弟子さんである国弘威雄が『橋本忍 人とシナリオ』に寄せて書いた文章にその記述があります。 師匠に何度も何度も同じシーンを書かされ、もう一字も書けなくなった時、こう言われたそうです。 「どうして書けないんだ。いや、大体、君はそこのシーンをうまく書こうと思うから、行き詰まってしまうんだ。うまく書こうと思うな。上手に書こうと思うな。もっと平凡な、単純な、幼稚でもいい、子供の作文のような形でもいいから、とにかくそのシーンを書いてごらん。それで形ができたら、それを直して、更に直して行けばいい」 うまく書こうと思うから、(その意識が強すぎるから)行き詰まってしまうんだ、というのは、私にとっても目から鱗のような言葉でした。 橋本忍は別なところで次のような文章も書いているそうです。 「書いている途中で行き詰まるということは、結局どういうことであったのか。いや、一本一本の作品にどうしてあんなに喘ぎ苦しんだのだろうか。それは要するに、書きながら自分の書いているものを、ああでもないこうでもないと強く批判し過ぎたからである。創造力を上回る批判力の作用が作品の進行に物凄いブレーキをかけていたからである」】
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脚本家というのは基本的にひとりでやる仕事のような気がするので、「弟子」がいるというのはちょっと驚きなのですが、この日本を代表する脚本家が語る「書いている途中で行き詰まってしまう理由」というのは、シナリオに限らず、何かを創造しようとする人間にとって共通したものであるように思われます。「書く」より前に、自分の頭の中で「これから書こうとするもの」を吟味しすぎてしまうことによって、結果的にその創造の芽を自分で摘んでしまうのですよね。やっぱり、書いたものを「こんなつまらないものを書きやがって!」と他人に批判されるのも、「ダメな作品を創ってしまった……」と自己嫌悪に陥るのも辛いことですしね。
しかしながら、実際に作業をすすめていくときに、なんらかの「叩き台」を修正していくのと、全くの白紙の状態からはじめるのとではどちらがラクかと問われれば、大部分の人にとっては「修正するほう」でしょう。その「叩き台」がそれこそ「小学生の作文レベル」であっても、一度形にしてみることによってわかるところもたくさんありそうです。叩き台から少しずつ修正していけばいつかは完成するはずの作品でも、頭の中で創っては壊して、を繰り返していれば、いつまで経っても全然形にならないのです。でも、そういうのって頭ではわかっていても、実行しようとすると、やっぱりプライドが邪魔をしたりしてしまいます。こんなの人に見られてバカにされたらイヤだなあ、とか。
それがどんなものであれ、「とりあえず書ける力」っていうのは、すごく大切なんですよね。どんなすごい才能を頭の中に秘めていても、「批判力」が強すぎては、いつまで経ってもそれは形になりません。ときには、自分の「批判力」を押し殺して「とにかく書いてみる」ことが必要なこともあるのです。 でも、この言葉、「師匠に何度も何度も同じシーンを書かされ、もう一字も書けなくなった時」に言われたという背景を考えると、国弘さんにとっては、「書けなくなったのは師匠のせいじゃないか!」と反論したくもなりそうですけどね。もしかしたらこれ、アドバイスというより「意地悪」だったんじゃないだろうか……
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