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2006年09月25日(月)
「討論」に勝つためのテクニック

「狂気の沙汰も金次第」(筒井康隆著・新潮文庫)より。

(「討論」というエッセイの一部です)

【週刊誌や雑誌などに載っている座談会を見ると、必ずひとり、他の人よりよけい喋っているやつがいる。誰かが2、3行発言すると、次には必ずそいつが10行か20行喋っている。
 こういうのを見るとぼくはその男を叩き殺してやりたくなる。他の人の発言を封じているのではないかといった気遣い、喋りすぎると他の人の発言時間を奪うことになるのだという自覚など、さらさらない。少し喋りすぎたのではないかという反省もない。20行喋って、少し発言を控えるかと思っていたら次の発言者の尻を蹴とばして、またぞろぺらぺらやり出すといった按配である。
 こういうやつに限ってインテリ面をしていて、自信満満、エリート臭ふんぷんである。そして庶民の無神経さを攻撃したりなんかしている。
 テレビ出演の依頼をことわり続けて1年になる。それというのも、こういった連中のなま臭さがほとほといやになったからである。
 連中の方にしてみれば、そうでなくては生きていけないぐらいに思っているのだろうが、そう開きなおっているところがますます鼻につく。
 聞くところによれば、テレビなどの討論会では、他の発言者のいうことを聞いていてはいけないのだそうである。
 誰かが喋っている間、自分が次に言うことを考えていなくてはいけないのだそうだ。そして誰かが喋り終れば、いや、まだ喋っていても、すぐに喋り出すといった具合でなければその番組は面白くならないのだそうだ。
 なるほど表面的にはお喋りが連続するわけで空白は生れないだろう。だがこの意見には、「視聴者なんて、どうせ発言内容をそれほど深く理解してはいないのだ」という思いあがりがある。
 以前テレビの番組で、ぼくが喋っていた。
 すると同じ出演者のひとりが、話なかばでだしぬけにテーブルをどーんと叩き、「なるほど」と叫んだ。なるほどというぐらいだから、ぼくの意見に同調してくれるのだろうと思い(これは誰でもそう思う)まだ喋りたいことはあったのだが、とにかくお喋りを中断すると、ご本人はテーブルに身をのり出し、「ところで、話はぜんぜん違いますが」】

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 この『狂気の沙汰も金次第』は、昭和48年刊行のエッセイ集なのですが、これを読んでみると「討論のやり方」に関しては、この30年でほとんど進歩していないのかもしれないな、という気がしてきます。
 確かに、自分が誰かと会話しているときのことを考えてみれば、本当に相手の話を聞いてから答えているときって、言葉を返すのに少し間ができますよね。もちろん、反応速度は人それぞれなのでしょうけど、やっぱりテレビの討論番組の出演者のあの反応の速さは異常です。あれはやっぱり、「相手が何を言っているか」なんて考えずに、「自分は次に何を言うか」に集中しているに違いありません。でも、観ている側としては、そんな「噛み合わないけれど、大きな声で間が空かないやりとり」のほうが、誰かが喋ったあとで少し間があいて、それから他の誰かがポツリポツリと言葉を選んでいる討論よりも「議論が盛り上がっている」と思い込みがちで、結局それが、こういう「お互に言いたいことを言っているだけの討論」が垂れ流されている理由なのでしょう。そしてそれは、テレビでの「討論」に限ったことではないのです。逆に言えば、「討論上手」だと多くの人に思わせたいのなら、相手の話など聞いていてはいけない、ということなのですよね。
 ただ、芸能人ではない僕としては、めんどくさい会議で、こういう「ひとりで20行、30行と喋ってくれる人」がいてくれると自分が喋らなくてもいいから助かるなあ、と感じることも少なくないのですけど。