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2006年08月02日(水)
「貸した金返せよ!」と言えない人々

「キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか」(北尾トロ著・幻冬舎文庫)より。

(普段の生活で、簡単そうに思えるけれど、実行するのは困難な些細なことを実際にやってみるという体験記の一部です。「知人に貸した2千円の返済をセマる」という項から。

【貸し金の催促。これは、いずれやらねばと思っていたテーマだった。大きな金額ではない。そうだな、数百円からせいぜい2千円どまりの、細かい金の貸し借りについてだ。
 やっかいなモンダイだと思うのである。なぜやっかいなのかといえば、それは額が小さいがゆえに貸すのを断りにくく、いったん貸してしまったら今度は額が少ないゆえに返済をセマりにくいからだ。
 たとえば缶ジュース。ノドが渇き、ちょいと自販機でという場面で、隣にいた友人が言う。
「あ、小銭ないや。貸しといて」
 わずか120円。これを断れる人がいるだろうか。だけど、これがクセモノなのだ。あまりにも軽い借金だから、借りたほうはすぐに忘れてしまうのである。
 タバコ代しかり、電車賃しかり。すぐ忘れる。ヘタすりゃその日のうちに忘却の彼方。
 一方、貸したほうは忘れない。自分が借りたときは忘れても、貸したときは100円だってきっちり憶えている。おごったんじゃなくて貸したんだから返してほしいよなと思う。自分には当然その権利があると考える。
 ところが、これが言えないんだよなあ。額が小さければ小さいほどケチなヤツだと思われそうで、口に出すのがはばかられる。
「この前、オレが出したジュース代、120円返してくれ」
「いつか切符買うとき小銭足りなくて30円貸したろ。あれ返せよ」
 高校生までならなんとかなっても、いい歳してマジな顔で言えるか。ぼくはダメだ。これができるのはかなりの猛者だと思う。ためらっているうちに時は流れ、ますます言えなくなってくる。貸した次に会ったとき言えなきゃもうキビシイだろう。額が多少増えたとしても”借金らしくない借金”であるかぎり事情は同じだ。
 この時点できっぱりあきらめがつけばいい、あの金は貸したのではなくあげたのだと納得できればいい。でも、それができないから困るのだ。
 いまさら言えない、でも忘れられない。ここから小銭貸し人間の苦悩が始まる。モンダイの核心が、金そのものから、”金を借りたアイツ”や”貸したオレ”の人間性になってくるからだ。
『んもう、鈍いな、さっきオレが自販機からジュース買うときわざとモタモタしてみせたのに、なんで思い出さないんだよ。小銭だからってことか。だけどなあ、そういうことじゃないだろこれは。人間、信頼関係だからね。きっちり行こうぜきっちり。だいたい言えないオレもオレだよ。自販機の前で「この前はオレが払ったから今日はお前の番な」と言えばよかったんだ。そうすればアイツも思い出して「すまんすまん」とでも答えたに違いないのに。もうダメだ、絶好のチャンスを逃した。こんなことすら言えず、相手を疑っているオレは小物なのかも……』
 こんな感じのネガティブ思考になってしまい、しばらくして(だいたい数か月かかってしまう)やっと苦い気分が抜けたころ、また小さな金を貸してしまうのである。そんな自分が嫌で、善意のカタマリになってみたかったのか、衝動的に大金を貸したことすらあるほどだ。つくづく器が小さい。
 ぼくは自分をケチと思わないが、貸した金のことはなかなか忘れられないし、そのほとんどを取りっぱぐれるということを長い間繰り返してきた。「返してくれ」と言えずに数十年である。借りたときには平気で忘れ、そのことを指摘されると「うるさいヤツだな」とか思うくせに、自分が貸すとくよくよ心を痛める。どこかで歯止めをかけなければこの先もずっとそうだろう。】

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 ああ、この気持ち、僕にもよくわかります。なるべくお金の貸し借りはしたくないし、するべきではないと日頃から考えているのですが、「額が小さいがゆえに貸すのを断りにくく、いったん貸してしまったら今度は額が少ないゆえに返済をセマりにくい」というのは、まさにその通りです。自動販売機の前で「120円貸して」と言うのは簡単でも、その場を離れてから「120円返して」と言うのは至難の業。なんだか、「返して」って言うほうが、かえって図々しい人間みたいな気分にもなるのです。
 いや、今のそれなりにオトナになった僕にとっては、ジュース代とかは、催促するほうが精神的ストレスが大きいし、ケチだと思われるのもイヤなので、もう「お互い様」だと奢ったことにしてしまうのですが、例えば、飲み会で立て替えたお金、数千円から1万円くらいの金額となると、諦めるのもちょっと勿体無いし(そもそも、奢る義理なんてないわけだし)、さりながら、そのくらいの金額を執拗に催促するというのも、なんだか気が滅入る話ではあるのです。翌日に最初に会ったときに、「あっ、昨日の飲み会のお金!」と言えればいいのですけど、そのタイミングを逸してしまった場合には、非常に言い出しにくくなってしまいます。でも、そこで「まあいいや」と綺麗さっぱり忘れてしまえればいいのだけれど、そういうのって、貸した側はなかなか忘れられないんですよね。
 そしてさらに、そのくらいの金額のことを思い悩む器の小ささや、同僚や友人を恨めしく感じてしまう心の狭さをあらためて自覚し、落ち込んでしまいます。別に、貸した側が何か悪いことをしたわけではないはずなのに。
 しかしながら、一社会人としては、こういう小さなお金を貸すことをひたすら拒否しながら生きていくのは、かえって煩わしいことも多いのです。

 かのカエサルは、「借金の名人」として有名だったそうです。各地のスポンサーから多額のお金を借りていたカエサルなのですが、彼にお金を貸していた人々は、その金額があまりに大きかったがゆえに「貸したお金が返ってこなくなることを恐れて、よりいっそうカエサルを支援せざるをえなくなってしまった」のだとか。
 お金の貸し借りというのは、ときに、人間の心を異常に屈折させてしまうことがあるみたいです。実際は、相手は単に忘れてしまっているだけで、ちょっと勇気を出して「返して」と口に出せさえすれば、大概のこういうお金は返してくれるはずなんですけど。