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2006年06月24日(土)
「英会話スクール王国」の恐怖!

「英語ができない私をせめないで!」(小栗左多里著・だいわ文庫)より。

(「英会話スクール初体験!」という項の一部です)

【さて衝撃の学校を、もう1つ。ここは一軒の洋館まるごとが教室として使われている優雅な学校。
 しかし!経営者でもある、英国人の校長先生が厳しいことでも有名なのだ。しかも、この館に一歩でも入ったらすべて英語で話さなければならないという、初心者としては、かーなーりー(フラットめの発音で)緊張せざるを得ない環境。
 私もドキドキしていた。
 というか仕事とはいえ、行くのはイヤだった。だって私、何が嫌いって、「怒鳴る男の人」くらい嫌いなもんはないんである。
 しかし行きましたよ。そして、帰る頃には、「やっぱ無理!」と思う私がおりました。でもそれは、「スパルタ方式」だけが理由ではなかったのです。
 その授業は吹き抜けになっているリビングで行われ、パーティを想定して、英語とともに立ち居振る舞いも身につけられる、というものでした。生徒は私以外に5〜6名、校長と補助の先生2名がついて、パーティのときと同じように全員立って授業は行われます。
 パーティ……。
 恥ずかしがり屋な日本人にとっては苦手なイベント。
 堂々としていたいところですが、英語も不得意だとくれば、控えめにしておくのが無難ではありませんか。「余計なことはしゃべらない」というのは日本人にとっては美徳ですしね。「そんでオレ、こう斬ったらあいつ、こうきやがってよぉー」なんてベラベラしゃべる武士、カッコよくないですもんね。
 でもやっぱり、英語圏の人には許せないらしいのです、しゃべらない日本人。厳しい目で生徒を見渡しながら、校長は言います。
「パーティのとき、日本人は壁の前にズラ〜っと並んでしまっている。それは本当にいけないことなんだよ!」
 実際は英語なので細かいニュアンスはわかりませんが、とにかく怒っているということはビシビシと伝わってくる。

 先生として怒るのもわかるが、問題は続いて言った言葉。
「それは、”ゴキブリ・アイデンディティ”だ。”ゴキブリ・アイデンティティ”は捨てなければいけない」
 んん?今「ゴキブリ」って言った? 言ったよね。それはちょっとひどいんじゃない?
 確かこの人、ちょっと前までは同じことを「忍者アイデンティティ」と言っていたはず。
忍者」は許そう。バカにしている感じはそうないから。いや、あるのかな。
 わかんないけど、とにかく「ゴキブリ」は明らかにダメ。だって私、「ゴキブリ」くらい嫌いなもんはないんである。そして多くの人もそうではないだろうか。もし校長が日本語を習って、日本語の先生に、
「あなたの身ぶり手ぶりは大きすぎて、死にかけのゴキブリみたいよ。そのゴキブリ・アイデンティティ、捨てなさい」
 と言われたら、どう感じるんだろう。やっぱり怒るでしょう。人にされてイヤなことは人にもしちゃダメって、お母さんに教わったはずだよ万国共通! と私は思ったのだが、この学校、恐ろしいことに、
「校長が日本文化などに対して批判しても、言い返してはならない」
 という規律があるのだ。なんでも、
「語学を学ぶために授業であって、文化衝突の場ではないから」
 だそうである。
 じゃ、校長を止めろ。と、私なら思うけど、ここは校長の王国。彼が王様だから、何でも許されるし、それがイヤなら「帰ってくれ」と言われるだけなのだ。
 そもそも入学するときに、こういった禁止事項などが書かれた分厚い入学願書にサインをしなければならない。だから入ると決めたのなら、彼の攻撃的なジョークを素敵と思ってついていくしかないのだ。まあそういう人しか、入ってないのでしょうね。
 最初から「おや?」と思っていた私だったが、校長の日本批判はその後も随所に現れた(電車での酔っぱらいがみっともない、汚いなど。私もそうは思うけど)。
 ここで討論になるのなら、主張する術が身につくとかまだ実りはあるが、規律のもとでは、ただ苦笑しつつ彼の怒りに耳を傾けるだけだ。感情的な人の話も聴き取れるようにはなるかもしれない、けれど。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕が「語学が苦手な理由」のひとつに、「別にしゃべりたくもないような人と、しゃべりたくもないようなことをしゃべるのが気まずくて辛い」というのがあるのですけど、この「恐怖の英会話スクール」の話を読んで、なんだか、よりいっそう「語学の勉強なんて、しなくても死ぬわけじゃないし……」という後ろ向きな気持ちがさらに増してきたのです。本当は、「できたほうが良いというか、英語ができないと、キャリアアップは難しい」のは間違いないのはわかっているのですが。
 もちろん、日本にある英会話スクールが、みんなこんな酷い状況にあるわけではないと思うのですけど。
 しかしながら、僕も外国人の先生に英語を習った経験が短期間ながらありますが、確かに、彼らの「西欧文化絶対主義」には、閉口させられることもありました。「歌舞伎」とか「寿司」というような「個々の(物質としての)日本文化」に対しては、それなりに敬意を払っている人も多いのですが、話が「日本人」となると、かなり辛らつな批判をする人もいたのです。このパーティの話にしてもそうなのですが、「本当にあんなパーティとかでにこやかに会話するのが『正しいこと』なのか?」「そんな機会が、一般的な日本人にとって、一生に何回あるのか?」と考えると、本当に、そこまでして「英語を信仰する」必要なんてあるのか?と言いたくもなってしまいます。そもそも、英会話の先生というのもピンキリで、「英語という文化を知ってもらうための情熱を持ち、日本人にも敬意を払ってくれる人」がいる一方で、「お前なんて、単に英語圏で生まれたっていうだけじゃねーか!」と言いたくなるような薄っぺらい人もいるんですよね。そして、ここに出てくる校長なんて、まさに後者の典型。
 にもかかわらず、こういう「校長が日本文化などに対して批判しても、言い返してはならない」なんていうような「英会話教室」が潰れないで存続しているほど、日本人は、「英語を教えてくれる人」に飢えていて、寛容なのです。この本のなかには、「日本人批判をする英会話教師に、にこやかに同調する日本人の生徒たち」の姿も描かれていて、なんだかそれは、本人にとっては「自分はわかっている人間」のつもりでも、客観的にみれば、「プライドのかけらもない、情けない人」にみえるような気がします。

 「嫌な目に遭うかもしれなくても、それでも積極的に他者とコミュニケーションしていこうという姿勢」がないと、言葉って身につかないものだと、理屈ではわかっているのですけど……