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2006年04月07日(金) ■ |
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「なぜ人を撃ったのか?」 |
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「魔王」(伊坂幸太郎著・講談社)より。
【「何を思い出したんだ?」 「以前に読んだ本。人が殺人を行う場合の心理について書かれた本」 マスターは瞼を閉じる。どうぞ先を進めて、と促す合図のようだ。 「基本的に人間は、殺人には抵抗がある。いや、動物全般がそうらしいですね。その本によれば、動物は、『同種類』の相手は、できるだけ殺さないようにするらしいんです。つまり人は、たとえ相手が敵であっても、殺人を犯さない方法を選ぼうとする」 「でも、戦争では、人は人を殺す」 「だから、殺人を実行するにはいくつかの要因があるんですよ。たとえば、面白いことが書いてあったんですが、戦場から帰ってきた兵士に、『なぜ人を撃ったのか』と質問をした時、一番多い答えは何かと言うと」 「殺されないために?」 「俺もそう思ったんだけど、違いました。一番多いのは、その本によれば」 「よれば?」 「『命令されたから』」 「なるほど」 「これは他の人の実験でも明らかになっているらしいんですよ。人は、命令を与えられれば、それがどんなに心苦しいことであっても、最終的には実行する」 「他の要因は?」 「集団であること」自分でそう答えた瞬間、スイカの種、ライブハウスの聴衆、隊列をなして行進を行う兵隊、それらが頭に浮かんだ。「集団は、罪の意識を軽くするし、それから、各々が監視し、牽制しあうんです。命令の実行を、サポートするわけです」 「集団か」】
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僕は普段、「人間というのは、人の言うことを聞くようにはできていない」なんて思い知らされることが多いのです。でも、それはあくまでもみんながある程度余裕のある状態だからであって、極限状態ならば、人というのは「自分でなんとかする」よりも「誰かなんとかしてくれ」と思うものなのかもしれません。 僕は以前「こんな言葉」を読んだことがあるのですが、自分で迷っているときに誰か「偉い人」に命令されてしまうと、それに従ってしまいがちなのでしょう。だって、そのほうがラクだしね。 そして、人間というのは、「自分が生き残るため」に人を傷つけることに対して罪悪感を覚えがちなのに、「上司に言われたから」「上官に命令されたから」と「他人のせい」にできる状況ならば、けっこう残酷なことができてしまうもののようです。ナチスによるユダヤ人排斥の現場での実行者たちは、確かに「やらなければ自分が殺される」という状況ではなかったはずですから。そして、あの状況は、確かに「集団」でしたし。 歴史を学ぶときに「どうしてあんなに昔の人は残酷なことができたのだろう?」なんて思うことがあるのです。でも、実際のところ、人というのは、誰か命令する人がいて、それが「正義」だと思い込むことができれば、意外と残酷なことができてしまうみたいなんですよね。秦の始皇帝の時代や第二次世界大戦中のドイツや文化大革命期の中国にだけ、突然変異的に「残酷な人類」が局所的増殖をみせていたというわけではなく。 近い将来、「なぜお前は人を撃たないのか?」と問われる時代が来るかもしれません。その時に僕は、その「問い」に自分の言葉で答えることができるのだろうか……
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