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2006年04月02日(日)
「生き急いだ」漫才師と、その相方だった男

日刊スポーツの記事より。

【漫才コンビ「紳助・竜介」で一世を風靡(び)した元タレント松本竜助さん(まつもと・りゅうすけ、本名・稔=みのる)が1日午前5時2分、大阪市内の病院で脳出血のため亡くなった。49歳。50歳を機に再び漫才をする約束をしていた相方の島田紳助(50)は「ネタ合わせ、嫌やったんやろ」と号泣。竜助さんを「戦友」と呼び「アホ、ボケしか言うことない。悔しい」と声を振り絞った。また竜助さんが自叙伝を執筆中だったことも分かった。

 50歳になったら再び漫才をする−。そう約束していた誕生日(6日)まであと5日、緊急入院から10日で、竜助さんは力尽きた。半生を振り返る自叙伝を執筆中だったが、それを出版することもできなかった。志半ばで短い一生を終えた相方に代わって、紳助がこの日夕、都内で会見した。

 紳助は、竜助さんが倒れた22日は沖縄にいたが、奥さんからの電話で一報を受け、翌23日に大阪の病院に駆けつけた。「手握ったら、握り返してくれた気がしたんやけど、もう脳死状態やった。今思えば錯覚やった」。大粒の涙を流しながら、その時の様子を話した。「竜と50歳なったらやろう言うてた。おれ、あと6時間で50歳やった」。見舞ったのは23日午後6時ごろで、紳助は24日が50歳の誕生日だった。紳助は親友の明石家さんま(50)にも電話で相談しながら、3回、見舞ったという。

 紳助と竜助さんは、85年の解散まで実質的に8年間コンビで活動。漫才ブームに乗り大活躍した。解散後、紳助は成功し、竜助さんは98年に事業に失敗し、1億2000万円の負債を抱えて自己破産した。竜助さんを「戦友」と呼ぶ紳助は「僕と出会わんかったら売れへんかったから、普通の人生あったんちゃうか。売れてプレッシャーなって、生き急いだんちゃうか。真剣に悩んでる」とやりきれない思いをこぼした。】

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 僕自身にとっての松本竜助さんについては、「紳助さんと一緒に漫才をやっていた、『紳助・竜介』の存在感の薄いほうの人」であり、そういえば「ひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」で「うーなーなーうなうなうななー(ズキ!)」ってやっていた「うなづきトリオ」にも入っていたよなあ、とかいうようなことが思い出されるくらいの存在なのですが(ちなみに「うなづきトリオ」の他の2人は、ビートきよしさんと島田洋八さん)、まだ49歳ということもあって、今回の「脳出血で危篤」という報道には驚きました。芸能人であるかどうかに関係なく、人が命を落としてしまう年齢としては若すぎます。
 「戦友」であった島田紳助さんの記者会見の記事を読んで、僕はその「相方」に対する義理堅さ、情の深さに感動しました。でも、その一方で、「島田紳助さんの自意識過剰」に対して、やや違和感をおぼえたのも事実です。この【「僕と出会わんかったら売れへんかったから、普通の人生あったんちゃうか。売れてプレッシャーなって、生き急いだんちゃうか。真剣に悩んでる」】なんて「コンビを解消したあとでも成功した相方」に言われるのは、ものすごく龍助さんにとっては悔しいことなんじゃないかなあ、って。それを言えるのは紳助さんだけなのだろうけど、たぶん、「島田紳助ほど才能がなかった」であろう松本竜助という人は、コンビ解消後は、紳助さんと常に比較されながら生きていて、そしてその対抗意識からの「背伸び」から、自己破産に追い込まれるまで「何かをやってみせよう」という思いにとりつかれていたのではないでしょうか。
 確かに、あんなふうに「時代の寵児」にならなければ、竜助さんは、いろいろ無理をして、こんなに早く命を落とすことにはならなかったかもしれないし、もっと「平凡な幸せ」を得られていたのかもしれません。そう考えると、「自分が巻き込んでしまったのではないか…」という紳助さんの「罪の意識」はよくわかります。でも、それはカメラの前で言うべきことなのかな、とは感じるのですが、紳助さん自身にもどうしようもないような感情の乱れからの発言だったのかな……
 いや、「幸せ」って本当にわかりませんよね。もし竜助さんが、芸能界では成功せずに、平凡な幸せに包まれて長生きしたとしても、やっぱり本人にとっては、「早死にしてもいいから、一度は売れてみんなにちやほやされてみたかった…」なんて、死ぬ間際に後悔しないとはかぎらないのだし。