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2006年01月17日(火) ■ |
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宮崎勤の17年間 |
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西日本新聞の記事より。
【東京と埼玉で四つの幼い命が次々と奪われた幼女連続誘拐殺人。最初の女児殺害から十七年余りを経て、十七日、宮崎勤被告(43)は最高裁の死刑判決を受けた。「覚めない夢の中でやったような感じ」と告白した初公判。「法廷は晴れ舞台」と言い放った控訴審。拘置所生活では幻聴を訴え、最後まで罪の意識は見せなかった。子供を標的にした残忍な犯罪が各地で相次ぐ中、「原点」となった事件に対する「最後の裁き」。どうしたら悪夢を絶てるのか、重い問い掛けは続く。
「全世界に配信してください」「無罪です」―。判決の直前、宮崎勤被告は東京拘置所から共同通信に手紙を寄せた。被告は逮捕後の拘置生活を「その日その日を送っていました」と説明。十七年前の事件を「良いことをしたと思います」と振り返ってみせた。
最後に公の場に現れたのは二〇〇一年六月、東京高裁での判決公判。弁護人によると当時小太りだった被告の体重は現在十キロ近く減り、複数の声が「つめをはがすのはわたしにやらせろ」などと虐待の相談をする内容の幻聴と不眠を訴え、向精神薬の服用を約十年間続けているという。
拘置所ではほとんど面会に応じない一方で、不特定多数の人との文通は盛ん。月刊誌「創」(創出版)に寄せた手紙は一審判決前から二百数十通となり、その一部が著書として出版された。
今年一月号では、奈良の小学一年女児誘拐殺人で公判中の小林薫被告(37)が「第二の宮崎勤として名前が残ってほしい」と供述していたことに言及。「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」と書き、外の社会で起きている出来事への関心もうかがわせた。
同誌の篠田博之編集長によると、宮崎被告はラジオで情報を得ており、流行歌手などの知識もあるが「興味の中心は昔のアニメやテレビ番組。逮捕前から時間が止まっている」(篠田氏)という。
著書に「もっともっと有名になりたい」と書いた宮崎被告。二月には創出版から二冊目の著書が出る予定だ。共同通信への手紙では、第三者の協力で「電子出版」したというインターネット公開の画集についても触れ、記事の配信先を「特にサウジアラビア王国、イギリス、オランダはお忘れなく」と指定した。】
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今日の午後のニュース速報で、宮崎勤被告の死刑確定を観ました。もう、あれから17年が経ってしまったのですね…
あの「幼女連続誘拐殺人事件」は、本当に世間を震撼させた大事件でした。当時のテレビニュースでは、「宮崎勤の部屋」が連日大々的に「公開」さて、そこに整然と並べられたビデオや、部屋に散らばっていたアニメや幼女の雑誌を観て、多くの人たちが、「オタクの犯罪」に対する恐怖感を語っていたものです。そして、「アニメが好き」というだけで、「宮崎勤みたい!」と「危険人物」のレッテルが貼られ、周囲の冷たい視線を浴びなければならなかった時代は、けっして短くなかったのです。 今となっては嘘みたいな話なのですが、「アニメ好きはみんな気持ち悪い!」という人に対して、「でも、宮崎駿のジブリ作品だけはセーフなんじゃない?」というような議論が真剣におこなわれていました。「あれは、宮崎勤が好きなアニメとは違う」と。逆に言えば、「ジブリ以外は、全部アウト」という時代だったのです。 いわゆる「オタクに対する嫌悪感」の元凶が、この「宮崎勤事件」にあったような気がします。
それにしても、今日のニュースでは、「宮崎勤から反省の言葉が出なかったこと」に対して、コメンテーターたちがいかにも無念そうに憤っていましたが、この上の記事を読んでみると、宮崎勤は「病気」なのだろうなあ、と僕は思います。普通の人に「魔がさして」やった犯罪ではなくて、もともとそういう人格に生まれついてしまったにちがいない、と。そして、これで反省するような「人間」なら、そもそも、こんな事件など起こさなかったはずです。 でも、僕は彼が「責任能力なし」で無罪とかになってしまったら許せないだろうし、宮崎勤かがあれだけの酷いことをしておきながら、17年間も生き、このような妄言を世間にばら撒いているのが許せないし、そういう社会というものにやるせなさを感じるのです。宅間のときも「反省の言葉もないままに死刑にするのは…」という「人道的な人びと」がいましたが、僕はこんな人間が「反省の言葉」を口にするのを17年も待つ必要があるのか?としか思えません。「こんな悪党でも、最期は人間らしくなった」ということで安心したいのかもしれませんが、「宮崎勤の後継者」たちは、次から次へと登場してきていて、「反社会的な犯罪者の高級ブランド」と化してきているのです。 この男の快楽のために時を止められてしまった子どもたちの時間は、もう二度と戻ってはきません。 「どうしてこんな事件が起こるのか?」と問いかけてみても、「そういう人間が、世の中には存在するのだ」という結論にしか達することができなくて、ただ、悲しくなるばかりです。
この17年間で、事件への記憶が薄れたためか、価値観が多様化したためか、世間は、「オタク」に対して少しだけ優しくなり、「宮崎勤みたい」と揶揄する人たちは、ほとんどいなくなりました。そして、「幼女趣味」も「反社会的な行為」も、「それも個人の趣味だから」ということで、世間は寛容になってきているようにも感じるのです。 「オタク狩り」が正しいとは思えないけれど、「他人に迷惑をかける、誰がどうみても正しくないことまで『個人の自由』だと放置されてしまう社会」というのが、果たして「生きやすい世界」なのでしょうか。
僕たちは、宮崎勤をどうすればよかったのか? この犯罪を「予防する」ことはできたのか? そもそも、宮崎勤は「人間」だったのか?
結局、17年を経て僕の心に浮かぶのは、怒りというよりは、「世の中というのは、所詮、理不尽なものなのだ」という諦めだけなのです。 「責任能力」って、いったい、何なんだよ…
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