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2006年01月16日(月)
「酒とネオンは仕事のエネルギー」と豪語した名将の「実像」

「Number.644」(文藝春秋)の記事「名将逝く〜ありがとう仰木監督」(永谷脩・文)より。

【西鉄の黄金時代、名将・三原脩が自分の前に座らせ、将来を託して教育したのが仰木だった。「人を見る時の感性はこの時に教わった」と語っていたものだ。
 三原と西本幸雄(元近鉄監督)の薫陶を受け、アイデアと個性を生かす野球で強者に立ち向かった。そんな中から、野茂英雄、イチローが育っていった。清原らを擁し黄金時代を迎えていた西武をあと一歩まで追いつめた10・19。翌年には初のリーグ制覇を果たした。「続投を告げにマウンドに行って、戻ると投手交代だもの。これがよく当たるから、文句もいえん」と投手コーチとして仕えた権藤博は振り返る。
 ’95年にはオリックスでリーグ制覇。翌年には長嶋巨人を4勝1敗で圧倒し、初の日本一に輝いた。この時、投手コーチの山田久志とぶつかった。「それがエネルギーにもなった。選手同士を意識して競争させているようだった」と山田は言う。仰木に「わざとやっているんですか」と聞いたことがある。「投手コーチの味方ばかりするな」と怒鳴りながら缶ビールを1本くれた。
 筆者と恩師・三原の名前”脩”が一緒だったのが縁で、気にかけてもらうようになった。夜の街で会うと、「なんだったら飲んでいけ」と気さくに誘われた。「酒とネオンは仕事のエネルギー」とウソぶきながら、「人の流れだけは見ておけよ」と言われたのを思い出す。
 元オリックスの田口壮が、訪ねる人もいないアメリカ2Aのグラウンドでプレーしていた時、姿を見せたのが仰木だった。「燃えつきるまでやれと声をかけてくれた」と現在、カージナルスで活躍する田口は言っていた。
 今年、ロッテの日本一を見て、10年前を思い出した。ファンへのアピール、試合ごとのオーダー変更、選手への気配り。バレンタイン野球は10年前の仰木と重なって見えた。
 訃報を聞いて、権藤と偲び酒を酌み交わした。「ケンカのし甲斐のある監督だった」とポツリと権藤は言った。「なんだったら飲んでいけ」と声が聞こえそうで、ひたすら飲んだ。仰木の好きだったビールの本数ばかりがやたらと増えていった。にがい味だった。】

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 昨年(2005年)の12月15日に永眠された、仰木彬監督をよく知る永谷さんが語る、名将の数々のエピソード。
 僕はこれを読みながら、仰木さんという人は、天性の「指揮官」だったのだなあ、とあらためて思いました。長嶋さんのような、圧倒的な「カリスマ性」でみんなを引っ張っていくタイプではなく、自分の知恵と力を絞って周囲を生かすことによって、組織を支えてタイプの。
 監督時代の仰木さんと権藤コーチ、あるいは山田久志コーチとの「対立」がしきりに囁かれていましたが、その「対立」すら、仰木さんにとっては、「選手の闘争心を引き出すための戦略」のひとつだったのでしょうか。もちろん、そのときに「わざと」だとみんながわかるようでは意味がないことだし、仰木さん自身がどこまで意図的にそうしていたのかはわからないのですけど。
 でも、「酒とネオンは仕事のエネルギー」と豪語しながらも、酒を飲みながら「人の流れ」を見ること忘れなかった仰木さんは、本当に「心の底から、楽しくお酒を飲んでいたのだろうか?」 などと、僕はつい考えてしまうのです。豪放磊落に見せながらも、常に、人間観察という「仕事」を忘れることができなかった名将。
 仰木さんは、ようやく天国で「心から好きな酒を楽しむ」ことができるようになったのかもしれませんね…