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2005年11月07日(月)
1967〜2005年のマリリン

2005年11月7日付の「日刊スポーツ」より。芸能担当・梅田恵子記者の本田美奈子.さんへの追悼のことばの一部です。

【本田さんの担当記者はみんな、彼女を「美奈子」と呼ぶ。取材対象者との適度な距離感を大切にするこの仕事では異例のことだ。「本田さんは…」と呼びかけると「美奈子でいいです」と笑顔で催促する。底抜けにフレンドリーな彼女の人柄に乗せられて、結局みんな「美奈子」と呼ぶようになる。彼女が望んだように、この原稿も「美奈子」と書かせてもらう。
 悪意や猜疑心とは無縁の人だった。食事会でも、初参加の私を気遣って隣に座り「おいしいね」と気を配る。「またこの店に来たい」と意見がまとまると、携帯電話も普及していない時代に、あっさり「ウチの電話番号は…」と教えてくる。社交辞令だと思っていたら、後日本当に電話がかかってきて面食らった。

(中略)

 前向きで、無類の頑張り屋だった。92年7月、ミュージカル「ミス・サイゴン」出演中に右足の指4本を骨折した。「大事な舞台に穴をあけた。お客さんに申し訳ない」。担当医も心配するほどのハイペースでリハビリをし、わずか28日で復帰した。3度の化学療法と臍帯血移植という過酷な治療も、あの美奈子だから耐えられたのだと思う。昨年11月に「本田美奈子.」に改名した。1画増えたせいで運気が変わったのだと周囲は案じたが「この病気も、歌手としてもっとはばたくためのハードル」と受け止め、元に戻そうとしなかった。
 アイドル歌手として曲がり角を迎えても、持ち前の頑張りと歌唱力でミュージカル、童謡、クラシックなどチャレンジの幅を広げていった。事務所社長が最後に聞いた言葉は「レコーディング頑張ろうね、ボス」。からだ全体で歌が好きな人だった。
 抗がん剤の副作用で髪が抜け、星模様がついたバンダナを巻いた美奈子の闘病写真を見た。不安で毎日泣いていたというのに、それを見る人が心配しないように、笑ってピースしていた。いろんな勇気をもらいました。ゆっくり眠ってください。】

〜〜〜〜〜〜〜

 とくに彼女のファンではなかった僕にとっても、本田美奈子.さんの訃報には、大きな衝撃を受けました。いや、不躾な話なのですが、「ザ・ベストテン」で彼女が音程を外していたシーンや、「ヘソ出しファッション」になんとなく居心地が悪そうだった親の顔や、彼女がミュージカル「ミス・サイゴン」のオーディションに合格したというニュースを聞いて、「けっ、客寄せに落ち目の元アイドルが主役か…真面目にミュージカルやってた人は、かわいそうだな…」と思ったことだとかを、なんだか急にいろいろ思い出してしまって。今から考えれば、本当に失礼な思い込みだったのですけど。
 梅田さんのことばの中には、いつも明るくて前向きだった美奈子さんの姿が浮き彫りにされていますが、傍からみていると、彼女の「芸能生活」は、けっして順風満帆な時期ばかりではなかったはずです。「アイドル歌手としての曲がり角」を迎えたあと、同じくらいの世代のアイドルたちが、過去の遺産で食いつないでいこうとするなか、「歌」にこだわり続けた彼女の姿は、むしろ壮絶なものですらあるのです。その一方で、この日刊スポーツの芸能面では、病に倒れる前の2004年の11月末のインタビューで、【「来年(2005年)は記念ツアーを予定しているんです。クラシックから演歌まで、もちろん『マリリン』もやりますよ」などと目を輝かせて語っていた】というエピソードが紹介されていて、「アイドル時代」とか「昔の曲」というのを嫌がるミュージシャンが多いなか、サービス精神旺盛で、こだわりのない人だったのだなあ、ということもうかがわれるのですが。
 僕はこの訃報を聞いて、記事での「本田美奈子.」さんの「.(ドット)」のことが少し気になっていたのです。彼女が病に倒れたのは、この「改名」の直後だったし、速報記事では、「.」がついてないものばかりだったので、きっと「縁起が悪いから」と外してしまったのだろうな、と思っていました。でも、美奈子さんは、この悲劇すら、プラスに考えようとしていたのですね…
 「本田美奈子.」さんは、享年38歳。あまりにも若すぎるし、御本人にも、やり残したことが、たくさんあっただろうと思います。それでも彼女は、多くの歌と、逆境に負けない生き方を、この世界に遺していきました。死して「永遠の歌姫」になるよりも、生きてひとりの歌手でいたかったのかもしれないけれど、あなたは、同世代の僕たちにとって、「本物」のマリリン・モンロー以上にマリリンでした。

 素晴らしい歌を、そして勇気を、本当にありがとう。