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2005年09月24日(土) ■ |
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天才・羽生善治が語る「才能」の正体 |
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「決断力」(羽生善治著・角川書店)より。
【以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。直感でどういう手が浮かぶとか、ある手をぱっと切り捨てることができるとか、確かに個人の能力に差はある。しかし、そういうことより、継続できる情熱を持てる人のほうが、長い年月で見ると伸びるのだ。 奨励会の若い人たちを見ていると、一つの場面で、発想がパッと閃く人はたくさんいる。だが、そういう人たちがその先プロになれるかというと、意外にそうでもない。逆に、一瞬の閃きとかきらめきのある人よりも、さほどシャープさは感じられないが同じスタンスで将棋に取り組んで確実にステップを上げていく若い人のほうが、結果として上に来ている印象がある。 プロの世界は、将棋界に限らず若いからといって将来の保証はまったくない。確かに、年齢が若ければ集中力も体力も充実している。だからといって、その人に明るい未来があるかの保証はまったくないのだ。 奨励会を抜け出すのも大変だが、たとえば、タイトル戦に四、五段の人が出ようと思ったら、予選で若手同士でつぶし合わなければならない。勝ち上がってもA級が待っている。それを全部勝たなくてはいけない。層の厚さという点で、私のころとはかなり状況が違う。やっても、やっても、やっても、結果が出ない……そういう状況だ。しかし、そういう中でも、腐らずに努力していけば、少しずつでもいい方向に向かっていくと思っている。 やっても、やっても結果が出ないからと諦めてしまうと、そこからの進は絶対にない。周りのトップ棋士たちを見ても、目に見えて進歩はしていないが、少しでも前に進む意欲を持ち続けている人は、たとえ人より時間がかかっても、いい結果を残しているのである。】
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今の日本で、「天才」の名前を挙げよと言われれば、たぶん、羽生さんの名前を挙げる人というのは、かなり多いのではないかと思います。将棋というのは、1対1で行われる「ゲーム」だけに、世間一般のいろんな勝負事のなかで、もっとも純粋に「才能」が問われるものではないか、という印象もありますし。実際は、この羽生さんの本を読んでみると、それなりの「しがらみ」みたいなものもあるようなんですけどね。 「天才・羽生」が語る「才能」についての文章、僕にとっては、非常に興味深いものでした。その「一瞬のきらめき」を持っている「天才」のはずの羽生さんにとっての「才能」というのは、むしろ「努力をする姿勢を持ち続けること」だったのか、と。 僕の記憶の中にも「アイツは頭いいんだけどねえ」と周りから言われ、「勉強すればできるだろうに」と期待されつつも、結局「才能は、ある」で終わってしまった人というのは、少なくありません。彼らは、ひとつの瞬間に、みんなをハッとさせるような「きらめき」を見せるのですが、結局それは長続きしないのです。そして「やればできる」と自分も周りも思い込んでいるうちに、いたずらに時間だけが流れていく。 もちろん、芸術の世界では、その「一瞬のきらめき」がうまく作品として世に残ることもあるのですが。 僕がこの本を読んで感じたのは、羽生さんというのは、その「一瞬のきらめき」と【十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられること】を両立している稀有な人である、ということです。でも、「天才・羽生」にとってより重要なのは、対局のときの「閃き」よりも、それを産み出すために、日々研鑽を続ける、ということのようなのです。棋士のイメージというのは、それこそ真っ白な状態で対局場にあらわれて、相手に応じて臨機応変に勝負する、というものだったのですが、実は、棋士たちの勝負というのは、対局場に座る前に始まっていて、将棋において、僕たちが「まだまだ序盤」だと思っているような状況が、すでにクライマックスのようなのです。そして、「ここが勝負どころ」だと僕が思っているような段階では、もう、すでに決着はほとんどついているんですよね。 実際は「努力をするにも、努力する才能が必要」なのかもしれませんが、それでも、「少しでも前に進む意欲を持ち続ける」というのは、けっして「できないこと」ではないはずです。「閃きがない」ことが終わりなんじゃなくて、「自分には才能がないから、と諦めてしまうこと」が、「投了」なのでしょう。 【やっても、やっても、やっても、結果が出ない……】この、三度も繰り返される「やっても」は、おそらく、羽生さん自身の経験で書かれているのだと思います。「天才」であり続けるっていうのは、そんなに甘いものじゃない、ということなのでしょうね。
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