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2005年09月04日(日) ■ |
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走れよ!メロス…… |
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「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2005年9月号の投稿コーナー「素朴なギモンをみんなで共有!今月のナゼ……?」より。
【日本の文豪の「ナゼ……?」考察
日本の文豪というと誰を思い浮かべるだろう?まっさきに名前が出てくるのが夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、川端康成ってところでしょうか。名前からして重厚さが感じられる。夏目漱石なんて旧1000円札ですからね。日本の象徴のようになってしまってる。今回寄せられた投稿から「文豪」と呼ばれる小説家のイメージをまとめてみたところ、まず、男性作家であること。教科書に掲載されていること。モノクロ写真、ヒゲ、着物、早死に……と文豪の文章に関する投稿はあまり見当たらない。やはり教科書で見た「著者近影がみな斜めの角度〜」のいかにも象徴的な写真の印象が根強い様子。
(中略)
「教科書で文豪の作品は学ぶのに文豪自身の人生は学べない〜」の投稿ですが、その後の彼らの人生をあらためて知って驚かされました。『坊っちゃん』の夏目漱石は神経衰弱だったし、『蜘蛛の糸』の芥川龍之介は睡眠薬で自殺してるし、『走れメロス』の太宰治はパビナール中毒だったし……。特に友情と信頼を描いた『走れメロス』執筆の背景には、太宰が熱海の旅館で借金を返せなくなり、友人の檀一雄がお金を届けに行くがそれも豪遊に使い借金はさらに10倍以上にふくれ上がり、「金を借りてくる」と太宰は檀を旅館に置きざりにしてそのまま何日たっても帰らず……というエピソードがあったとか。檀が業を煮やし探しに行くと、太宰は井伏鱒二と将棋を指して遊んでいた……っておいおい、『走れメロス』で書いてることと、やってることが違いすぎだよ。この背景、子どもには教えてはいけません。投稿の「文豪なんて言われているが奇人変人が多い〜」ですが……ほんと、たしかに。】
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「文豪」なんて言われるような大作家は、ある意味、(才能も含めて)アブノーマルな面を持っている人間なのですから、「奇人変人」なのもしょうがないのかな、とも思うんですけどね。 まあ、夏目漱石さんや森鴎外さんなどは、やや偏屈そうなイメージはありますが、社会的にもそれなりに「立派な経歴」を持った人ではあったようですが。 この太宰治の「檀一雄置き去り事件」というのはけっこう有名な話で、たぶん、こういった体験が、太宰さんの「走れメロス」のモチーフになっているのでしょう。ただ、小説のメロスは葛藤を抱えながらも友のところに戻るという感動的な話である一方、それを描いた太宰本人は、「友人を人質にしておいて、自分は悠然と将棋を指していた」というのは、ちょっと情けない話ではあります。小説的には、メロスが逃げちゃったら「話にならない」でしょうけど。 読者としては、すばらしい話、感動的な話を書く人は、みんな立派な人格者であると思いたいし、そう考えがちなところなのですが、実際は必ずしもそうではないようです。太宰さんの場合などは、あの破滅型の人生そのものが、彼の「小説の世界の一部」だったのかもしれません。後世の読者であり、彼の「作品」にだけ接していればいい僕たちは、そういう解釈をして、それでおしまいなんですが、リアルタイムで太宰さんに接していた人たちには、「なんてどうしようもないヤツなんだ…」と嘆息していたくなることも多かったと思うのです。むしろ、そういう「どうしようもないところがある人」のほうが、人間の機微に踏み込んだ作品を残したりするもののようです。 本当に「ちゃんとした人」というのは、言葉になんかせずに、自分の行動で完結してしまっていて、言葉にできてしまうものは、すべてフィクションなのかもしれません。実生活で信じるべきは、「立派なことを言っている人」ではなくて、「立派なことをやっている人」なんだよなあ。
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