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2005年08月28日(日) ■ |
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隣席の「気になるふたり」 |
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「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2005年9月号の連載エッセイ「もしもし、運命の人ですか。」(穂村弘著)より。
【喫茶店などで、隣席のカップルの様子に興味をもつことはあまりない。彼らがラブラブだろうとリラックスしていようと退屈していようと、私には関係がないのだ。ところが、ふたりがなんとなく険悪な雰囲気というか、喧嘩っぽいっモードになっていると、急に気になり始める。 何を怒ってるの。うんうん。うわ、そんなことしたんだ。恋人の妹にちょっかい出すなんて。最悪。うんうん、でも、ちょっとわかるかも。姉妹といっぺんにつきあうなんてどきどきするじゃん。彼女ももうちょっと落ち着いて話をきいてくれればいいのにね。本当に好きなのはおまえだけだ、って云った方がいいよ、などと心のなかで双方にランダムな相槌をうちながら、さらに詳しい状況を把握するために聞き耳をたてる。 男女がふつうに話しているだけで、そのような喧嘩モードと同じくらいこちらの興味を引くケースもある。それはふたりが敬語で喋っている場合だ。明らかに仕事上の打ち合わせなら、ああ、そうかと思ってすぐに納得する。だが、プライベートな関係らしいのに、お互いにどこかぎくしゃくした敬語を使っていると、なんだか気になってくる。 そう、敬語のふたりはまだ男女の関係性の着地点を見出していないのだ、まだやっていない男女には独特のオーラというか、緊張感がある。そのスリルが観客(私のこと)の気持ちを惹きつける。どの辺りに関係性を着地させたいかについての、男女の意図と駆け引きに興味があるのだ。着地点は果たしてどこになるのか、自分なりに予測したくなる。】
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たとえば、レストランなどで、近くの席にカップルが座っていたとします。ここで穂村さんが書かれているように、「恋人同士」の場合には、そんなにその2人のことは、気にならないんですよね。そりゃあ、あまりにベタベタ、いちゃいちゃしていれば、「よくこんなところで、そんなにベタベタできるようなあ、まったくもう…」なんて、あきれ返ったりはするのですが、そういうカップルへの興味というのは、すぐに失われてしまうような気がするのです。 その一方で、確かに「お互いに敬語(あるいは、丁寧語、くらいの場合もありますが)で喋りあっているカップル」というのは、なんだか、すごく気になりますよね。「いったい、このふたりは、どういう関係なんだろう?」って。自分たちのテーブルのことはそっちのけで、ふたりの間に流れる微妙な空気というやつを探ってみたりするわけです。 たとえば、ふたりが仕事の話とか共通の友人の話をしたりしていれば、「友達」なんだろうか、とも思うのですが、逆に「純粋な友達」なのに、男女が敬語で喋りあうという状況は考えにくいし、世を忍ぶ不倫カップルなどでもなければ、恋人同士なのに敬語を使いあうなんていうことは、あまりないように思われます。なんだか、すごく微妙な関係。 実際のところ、「敬語」を使うのには大きく分けて2つの理由があって、ひとつは言葉どおり「尊敬」をあらわしている場合、そして、もうひとつは、「遠慮」している場合です。そして、後者の「遠慮」というのは、ある意味「敬して遠ざく」というか、「距離をある程度とって様子をみている、警戒している」という状態でもあるのです。まあ、この両者は、並立している場合もあるのですけど。 だから、そういう「男女間で敬語」というのは、「尊敬する上司や先輩と食事に来られてうれしい」という状態か、「どちらかが(たいがいは女性のようですが)、内心嫌がっているにもかかわらず、相手が断れない人(上司とか)なので、付き合わされて一緒にここにいる」という状態か、というのが、一般的なパターンだと思われます。まあ、傍目八目というか、第三者として聞いていればその「敬語のニュアンス」は、ものすごく伝わってくるのですが、当事者のほうは、いい気分で延々と説教とか自慢話とかしていたりするものなんですよね。 ああ、もういい加減に解放してあげろよ!とか、心の中で憤ってみたり 、そんなミエミエの口説き文句に引っかかっちゃダメだよお嬢さん、とか、心配してみたり。 まあ、そういう「微妙な敬語の時期」っていうのは、当事者にとっては、けっこうドキドキして楽しいものなかもしれないけど、周りにとっては、けっこう気になるものなのです。 所詮、店を出てしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう程度の「興味」ではあるのですけど。
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