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2005年07月17日(日)
クロード・シモンの遺産

共同通信の記事より。

【ヌーボー・ロマン(新しい小説)の旗手で、フランスのノーベル文学賞作家クロード・シモン氏が6日、パリで死去した。91歳。フランスの出版社が9日発表した。
 1913年、マダガスカルで生まれ、南アフリカやパリで育った。第2次大戦中、騎兵連隊に動員され捕虜になったが、脱出した経験を持つ。
 戦後、代表作「フランドルへの道」(60年)「歴史」(67年)などを次々と発表し、85年にノーベル文学賞を受賞した。
 近代小説の形式を無視し、革新を目指したヌーボー・ロマンの代表的作家で、ほかに「三枚つづきの絵」(73年)「アカシア」(89年)「路面電車」(2001年)など、生涯で約20の小説を残した。】


「ノーベル文学賞〜作家とその時代」(柏原康夫著・丸善ライブラリー)より。

【クロード・シモンは1913年に、東アフリカの旧フランス領マダカスカルで生まれた。最初は画家を志したが、のちに小説を書き始めた。動機はこの世代の人びとの多くが体験した戦争の記憶であった。彼はスペイン市民戦争や第二次大戦に兵士として参加し、とくに第二次大戦では捕虜となり、ナチスの収容所から脱走するという体験を持っている。ノーベル賞を受けた直後のインタビューでこう語っている。
 「私はいまや老人になってしまった。ヨーロッパに住む多くの人々にとってと同じように、私の若い頃は、決して平穏な時代ではなかった。私は革命をこの目で見た。私は戦場にも行ったが、それはとくに過酷な条件のなかであった、私が属したのは、将校がわれわれ兵隊を先頭に立たせて犠牲にするといった連隊で、一週間後にはほとんど誰もいないという有様だった。私は捕虜となり、飢餓も体験した。肉体労働で疲労困憊したこともある。脱走し、重い病気にかかり、死線を幾度もさまよった。いろいろな体験をし、さまざまな人に出会った。境界の司祭、平和を愛するブルジョア、アナーキスト、哲学者に文盲の人。浮浪者とパンを分けあったこともある。
 私は世界をくまなく歩いたが、何の意味も感じなかった。シェイクスピアの言葉を借りれば、世界が何かを意味するとすれば、それは何の意味もないということだ、ただ世界は存在するということを除いて。」
 クロード・シモンが作品で描こうとしたのは、まさしくこの「世界には意味はない、ただ存在するだけだ」という実感である。彼はそれを自分の体験を素材として、小説に組み立てようとしたのである。問題はその方法であった。戦争や収容所での生活、そして脱走といった事柄は、従来ならば一大叙事詩に仕立て上げられるものである。だか彼はあくまでこれを一個人の体験、それも主人公の記憶が手繰り寄せるイメージの集積として描こうとした。その結果小説は従来のような明確な輪郭を失うことになったが、その分行間からは濃密な内面風景が浮かびあがり、文学的リアリティーを獲得することになった。
 1960年に発表された代表作『フランドルへの道』の書き出しはこうなっている。

 「彼は手に一通の手紙を持っていたが、目をあげてぼくの顔を見つめ、それから手紙を見、それからまたぼくを見た。彼のうしろに、水飼い場に連れて行かれる馬たちの橙色がかった赤褐色の斑点が行ったり来たりするのが見え、あまりに泥が深くくるぶしまでもぐりこんでしまうほどだったが、いまでも覚えているのは、たしかその夜の間に急に氷がはりつめ、ワックがコーヒーを部屋に運んできたとき、犬どもが泥をくらったぜ、といったことで、ぼくは一度もそんな言いまわしを聞いたことがなかったから、まるでその犬どもとやらが、神話のなかに出てくる残忍な怪物のように、緑が薄桃色になった口、おおかみのように冷たい歯をして、夜の闇のなかで真黒い泥をもぐもぐ噛む姿、おそらくはなにかの思い出なのだろう、がつがつした犬どもが、すっかり平らげ、地面をきれいにしてしまう姿が目に映るような気がしたのだった。いまは泥は灰色をしていて、われわれはいつものように朝の点呼に遅れまいとして、馬の蹄のあとが石みたいにこちこちに凍った深いくぼみに、あやうく足音をくじきそうになりながら、足をよたよたさせて走っていったところだったが……」(平岡篤頼訳)

 『フランドルへの道』は、彼自身が体験した1940年のフランス軍の大敗走を扱っているが、単に歴史的な事実を描くのではなく、主人公の頭のなかでひしめきあう記憶を記述するという形式がとられている。実際に小説の表面を流れる時間は、戦後のある一夜の数時間でしかない、その短い時間のなかで喚起された様々なイメージ、敗走する兵隊の足音、軍馬の死体が放つ臭気、収容所での生活といった視覚、嗅覚、触覚の記憶からなる主人公の内面風景が詳細に記述されていく。
 シモン自身が「ル・モンド」紙とのインタビューの中で述べているように、「記憶のなかではすべてが同一平面上に置かれている、会話も感動も幻も共存しているのです。私がやりたかったのは、このような事物のヴィジョンに適合する構造を作りあげること、現実には上下に積み重ねられている諸々の要素を次から次と提示して、純粋に感覚的な構造を再発見することを可能にする構造を作りあげること」に成功したのである。】

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 7月6日に亡くなられた、ノーベル文学賞作家、クロード・シモンさんに関する文章です。ちょっと長い引用で、申し訳ないのですけど。
 僕がはじめて、このクロード・シモンという作家の名前を聞いたのは、高校の国語の時間だと記憶しています。ということは、ノーベル賞を受賞されて何年か後の話、ということになりますね。国語の先生が、現代の世界の文学には、こういう新しい傾向があるんだ、というような話をされていて、そのなかに出てきた名前が、このクロード・シモンとガルシア・マルケスだったのです。確かそのとき、クロード・シモンさんの『フランドルへの道』を、「とにかく『。』が少ない小説」という紹介の仕方をされていたのを今でも覚えています。その授業のあと、実際に「フランドルへの道」を手にとってパラパラとめくってみたときの感想は、「確かに『。』が少ないなあ、そして、読みにくし何が言いたいのか、よくわかんない小説だなコレ」というものだったんですけどね。こういう「文体に特徴があって、それが重要な小説」というのは、訳した平岡さんもさぞかし大変だったと思います。
 それから僕は、G・マルケスはそれなりに読みましたが、クロード・シモンさんの作品に関しては、ほとんど縁がなかったのです。「まあ、代表作の『フランドル』くらい知っておけばいいだろ」という感じで。

 しかしながら、今、あらためて、この小説が1960年に発表されたということを考えると、それまでの「物語としての輪郭重視」という小説の常識に挑戦したクロード・シモンさんという人は、後世の文学に多大な影響を与えているのだなあ、ということがよくわかります。【記憶のなかではすべてが同一平面上に置かれている、会話も感動も幻も共存しているのです。】というのは、言われてみれば確かにその通りで、僕たちの「実感」のなかには、雑多なイメージが浮かんでは消えたりしているんですよね。それこそ、どんな場面でも、ひとつのことに集中していられる人というのは、そんなに多くないはずです。どんな大きな悩み事があっても、ドン、と花火が一発上がれば、「ああ花火だ、そういえば子供の頃親と花火を…」というように、意識は「寄り道」しがちなもので。

 ネット上で時折みかける「。」の少ない、畳み掛けるような文章というのも、そのルーツは、クロード・シモンさんにあるのかもしれません(実質的には平岡さんなのかもしれないけど)。
 そして、こういう文章を読むたびに、僕が「新しい」と思ったものは、あっという間に、「常識」になってしまっているのだなあ、と感じてしまうのですよね。

 「ただ存在する世界」を描いた偉大なる作家の御冥福を、謹んでお祈りさせていただきます。