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2005年06月30日(木) ■ |
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「ネットコミュニケーションの実名化」がもたらす喪失感 |
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共同通信の記事より。
【総務省は27日、自殺サイトなど「有害情報の温床」ともいわれるインターネットを健全に利用するために、ネットが持つ匿名性を排除し、実名でのネット利用を促す取り組みに着手する方針を固めた。匿名性が低いとされるブログ(日記風サイト)やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)を小中学校の教育で活用するよう求め、文部科学省などと具体策を詰める。 今週初めに発表する総務省の「情報フロンティア研究会」の最終報告書に盛り込む。 国内のネット人口は増加する一方だが、匿名性が高いために自殺サイトの増殖や爆弾の作製方法がネットに公開されるなど、犯罪につながる有害情報があふれている。総務省はそうしたマイナス面を排除し、ネットを経済社会の発展につなげていくためには、実名でのネット使用を推進し、信頼性を高めることが不可欠と判断した。】
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少なくとも今の日本のネット上では、利用者は一部のオフィシャルなサイトを除いて、自分の本名ではなく、HN(ハンドルネーム)を名乗るのが一般的です。普通の掲示板に、実名(らしきもの)で登場してきた人に対して僕が受ける印象というのは、よっぽどネットに慣れていない人なんだな、というものか、変わった人なのではないか、というものですし。 正直、ネットの「匿名性」なんて、とくにネットで自分のことを書いている人に関しては、「相手が本気で(興信所などを使って)調べれば、けっこう簡単にわかる」という程度のものだと思うのですが。
でも、僕はこんなふうにも思うのです。 ネットでみんながHNを使うのは、「匿名」を利用して、悪いことをしたいからなのか?と。 確かに、実名だと悪口なんて書きにくいし、ネットでの誹謗中傷は減るでしょう。おそらく、ネット上で、良くも悪くも「何か」をやろうという人も減るでしょうけど。 「ネットの匿名性」が隠してくれるのは、「悪事」だけではなく、「羞恥心」もなのではないかなあ。誹謗中傷だけじゃなくて、日常生活では、なんとなく恥ずかしくて表に出せないような表現欲を「自分が誰だかわからない状態で、他の誰かに見てもらえる」という条件下だからこそ、発揮することができている人というのは、けっして少なくないのではないでしょうか。 自分が描いた絵や綴った小説を、周りの人に見せる勇気はなくても、ネット上でなら「発表」できるという人は、けっこういるんじゃないかなあ。
ここでこんな森羅万象(というのは言いすぎですが)に関してあれこれと論陣を張っている「じっぽ」というのは、ネットではない現実社会では、うだつの上がらない、他人の話を「ふーん、そうだねえ」なんてあんまり興味なさそうに聴いていて、あまり自分からあれこれと手を上げて発言することもない、そんな、比較的無害だけど存在感の薄い人間なのです。そして、リアルの僕は、そういう生き方が好きなのです。
たぶんね、僕は自分が日頃「うまく生きる」ために心にしまっているものを、こうしてネットに「発表」しているのです。そして、現実世界の僕は、じっぽというHNで悪いことをしたいわけではなくて、「じっぽ」という人に、このネット世界の中でだけでも、なっていたいのだと思う。「ドラゴンクエスト」の中では、誰もが英雄であったり、ネットゲームの「ファイナルファンタジー」の中では、命がひとつなら絶対にできない冒険ができるように、僕にとって、「じっぽ」というのは、「隠れ蓑」ではなくて、自分にとって、ひとつの「演じてみたいキャラクター」なのです。そのキャラクターが、他人からみてどんなイメージか、というのはさておき、僕は、このキャラクターに愛着があるし、もし、この「ぼうけんのしょ」が消えたら、ものすごく悲しみます。
ネットが実名になれば、確かに、「有害事象」の中に、減少するものも出てくるでしょう。でも、そういう「実名でも大声でモノが言えるタイプの人々」だけが発言するような世界は、僕にとってはものすごく居心地が悪いにちがいありません。
でも、僕にはわかっています。 おそらく、今後もこの世界はどんどん「じっぽ」にとって居づらいものになっていくはずです。おそらく、それはネットというものが「普通のもの」になっていくということなのでしょう。 それが、僕にとっては、どんなに寂しい変化であったとしても。
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