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2005年05月07日(土)
あだち充にとっての、普遍的な「かっこよさ」

「別冊宝島235・いきなり最終回」(宝島社)の「作品解説・タッチ」(書き手・斉藤宣彦)より。

【最終回の前回、達也から南への非常にまっすぐな告白シーンがある。あだち氏が述べたように、物語はここで終わった。達也たちと同世代のキャラクターが総登場する最終回で描かれたのは、日々の移ろいである。有終の美、あだち流のダンディズムだ。ところで先の発言の中で出てきた、あだち氏の理想とするおしゃれ、かっこよさはどのようなものなのだろう。
「連載開始当時、周囲の雰囲気が、大声で喋らないといけないようなものだった。僕は、その言葉を呑み込んで、喋らないのがカッコイイんじゃないかと。少女誌から少年誌に戻ってきて、周りが、主人公が女の子のつきあいも犠牲にして甲子園を目指すようなマンガを描いているとすると、僕は女の子のために甲子園を捨てちゃうような主人公のほうがカッコイイんじゃないかと思うんですよね。そうして描いていると、周囲にそういうキャラクターが増えてくる。そうすると今度はがむしゃらに甲子園を目指すような男がかっこよく思えてくる。ひねくれ者なんです、素直じゃない。かっこよさっていうのは、意外と優柔不断に、周りによって変わってしまうんですよね。かっこよさに普遍性なんてないんですよ」。】

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 率直に言えば、僕はあだちさんの一連の作品があまり好きではなくて、その理由は、「あんなカワイイ幼馴染が、都合よくいるわけないだろ!」というような、ヒガミ根性だったりするわけです。そもそも、「いるわけない」よね、マンガなんだから。
 でも、「タッチ」をマンガ喫茶で魔がさして読み始めてしまい、結局、最後まで読み続けてしまった経験もあって、そういう意味では、催眠術と同じように「自分は騙されない!」なんて自信を持っている人ほど、実際には騙されやすいのかもしれませんね。
 ここであだちさん自身が語られている「かっこよさ」に対する考えというのは、僕も含めて、いま流行りの「カッコイイこと」を真似しがちな人々にとっては、なかなか興味深いものだと思うのです。
 実は、「普遍的なかっこよさ」なんてものは存在せず、あくまでも相対的な「他人と違うこと」こそがかっこよく感じられるのではないか、という「ひねくれ者」の発想。そう言いながら、あだちさんの作品には、共通点みたいな要素も、大部分の作品に間違いなく含まれているように感じられますが。

 先日、あるテレビ番組で、恋人の女の子の家に居候しながら、大道芸人になるためにヨーロッパに渡って勉強しようとしている20代半ばくらいの男性の話を観たのです。彼の渡欧費用のために秘密で貯金までしている彼女。
「お金もかかるし、彼は遠くに行ってしまうし、大道芸人という仕事で食べていけるかなんてわからないのに、それでも彼が好きなの?」というリポーターの問いかけに、彼女は、こう答えていました。
「うーん、でも、いまどき、こんなふうに夢を追いかけている人って、珍しいじゃないですか」
 僕はこのけなげな彼女に感動するのと同時に、現代というのは、「現実的に生きることに傾きすぎた時代」なのかな、なんてことが、頭に浮かんできたのです。みんなが夢を追っていた時代であれば、こういう光景に対して、「無理無理、もっと現実を見ろよ」って感じていたような気がするのです。