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2005年05月04日(水) ■ |
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引き算の優しさ |
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「夜のピクニック」(恩田陸著・新潮社)より。
【貴子はひやひやしていた。何か自分が余計なことを口にするのではないかと心配でたまらない。 「ふうん、だからかな。似たような印象があるのは」 「印象、似てる?」 「うん。しっかりしてて、大人なところは大人だ」 「あたし、ちっともしっかりしてないよ」 「いいや。他人に対する優しさが、大人の優しさなんだよねえ。引き算の優しさ、というか」 貴子はまた笑い出した。 「なんか、戸田君、凄くない?梨香より脚本家に向いてるかも」 「へえ、自分の知らない才能を発見したかな。大体、俺らみたいなガキの優しさって、プラスの優しさじゃん。何かしてあげるとか、文字通り何かあげるとかさ。でも、君らの場合は、何もしないでくれる優しさなんだよな。それって、大人だと思うんだ」 「そうかねえ」 融ならともかく、自分にそんな気配りがあるとは思えない。】
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「引き算の優しさ」かあ… これは、作中の高校生同士の会話なのですが、なんだか、高校生とは思えないような「大人の話」だなあ、と思いながら、僕は読んでいたのです。 まあ、「作者は『大人』なんだから」とかいうのは、ちょっと不粋というものなのですけど。 これを読んで、「引き算の優しさ」について考えてみたのですが、実のところ、大人にとっても「引き算の優しさ」というのは、なかなか難しいものだよなあ、と感じます。 たとえば、親友が振られたときに、「気分転換に、飲みに行こうよ!」と無理やり誘うのが「プラスの優しさ」だとすれば、「今はそっとしておいてあげよう」と連絡も取らないで見守るのが「引き算の優しさ」だということでしょう。確かに、本当に落ち込んでいるときに「わざとらしく慰めてくれる人」というのは、けっこうムカついたりもするわけです。しかしながら、その一方で、「何も言ってきてくれなかった人」というのは、「あえてそっとしてくれていた」のか、「単にどうでもよかった」のか、当事者にとっては判断しかねるようなときもあるのですよね。 「そのくらい、わかるだろ!」という人もいるかもしれませんが、当事者としてはわかっているつもりでも、後になると「そういえばあのとき、『何もしてくれなかった』よなあ」なんて、なんとなく感じたりもすることって、けっこう多いのではないでしょうか? プラスの優しさというのは、その場ではうざったいときも多いのですが、確かに「記憶」として残ります。でも、「引き算の優しさ」というのは、「あのとき放っておいてくれたよなあ…」なんて気づかないこともありますし、だいぶ時間が経ってから、ようやく気がつく、なんてこともあるのです。 なんのかんの言っても、「目に見える言葉や行動」のほうが、伝わりやすいよなあ、とも思うんですよね。「引き算の優しさ」って、なかなか見返りがないんですよね。見返りを期待する時点で、すでに「引き算の優しさ」ではないのかもしれないけれど。
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