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| 2005年04月04日(月) ■ |
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| 偉大な法王、ヨハネ・パウロ2世が遺したもの |
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読売新聞の記事より。
【ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に伴い、次期法王は15〜20日以内に開催されるコンクラーベで選ばれることになった。 候補を巡る多数派工作は水面下ですでに始まっているが、対外関係での多大な功績と、教会内に対立を残したヨハネ・パウロ2世の後任だけに、誰がなろうともその課題は大きい。 リベラル派として知られるフンメス枢機卿(70)は2日、「これからのカトリック教会は避妊など性にかかわる問題で科学と向き合うことが大切だ」との声明を発表した。法王が死んだばかりの時点で、高位聖職者が批判的な言動を取るのは異例のことだ。 ヨハネ・パウロ2世は、1960年代からリベラルへと傾いていたカトリック教会の舵(かじ)を保守へと切り返した。このため、リベラル、穏健両派の不満が教会内に鬱積(うっせき)している。 次期法王は、こうした不満を吸い上げつつ、現在、バチカン内に根を張る保守派をも満足させ、ヨハネ・パウロ2世がもたらした“亀裂”を修復する必要がある。 社会問題では保守派ながら反グローバリスムを主張するイタリア・ミラノ大司教のディオニジ・テッタマンツィ枢機卿(70)や保守色は残るものの第三世界の貧困問題に理解のあるアルゼンチン・ブエノスアイレス大司教のホルヘ・ベルゴリオ枢機卿(68)らの名が候補として挙がっているのもこうした理由からだ。 一方、冷戦崩壊の立役者の一人として外交史に名をとどめたヨハネ・パウロ2世に匹敵する外交手腕を当初から新法王に期待するのは酷かも知れない。 そこで、国務長官(首相)のソダノ枢機卿(77)、ラッツィンガー首席枢機卿(77)といった、長く法王を支えてきたバチカン重鎮が、短期リリーフの形で選ばれる可能性も指摘されている。 バチカン専門ジャーナリストのサンドロ・マジステル氏は、「偉大な法王だったヨハネ・パウロ2世の後任となるのは誰にとっても難しい」と見る。】
参考リンク:コンクラーベ(WEB東奥/ニュース百科)
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僕も世界史の時間に、「根競べ」と「コンクラーベ」を引っ掛けて記憶していたものですが、参考リンクを御覧いただければ窺えるように、この「コンクラーベ」というのは、当事者たちにとっては、本当に大変な会議のようです。現在、投票の有資格者は117人だそうなのですが、ここに名前が上がっている枢機卿たちは、いちばん若い人でも68歳ですから、確かに、激務の中でのヨハネ・パウロ2世の26年という在任期間は非常に長期であったと言えそうです。そもそも、前任者のヨハネ・パウロ1世は65歳で法王の座につき、その際のコンクラーベに参加したヨハネ・パウロ2世は、「自分がコンクラーベに参加するのも、これが最初で最後だな」と思っていたという話が残っているくらいですから。 ところが、在位1ヶ月あまりで1世が逝去されてしまい、本人すら予想しなかった若い法王が誕生しました。それが、ヨハネ・パウロ2世だったのです。 僕はカトリック教徒ではありませんが、今回の法王逝去に伴うさまざまな報道で、あらためて、「ポーランド生まれで、ナチスへの抵抗運動にも加わっていた」という異色の法王の数々の業績を知りました。その一方で、ヨハネ・パウロ2世は、偉大であるが故に、敵も少なくなかったということもわかったのです。 ヨハネ・パウロ2世は、世界平和を訴える一方で、妊娠中絶やコンドームの使用への反対といった、教義に厳格な姿勢を崩すことはなく、そのことは、日常レベルにおいては「困ったこと」だと思っていた信者も、けっして少なくはなかったのでしょう。エイズをはじめとする、性感染症の問題もありますし、法王の姿勢は「理論上は、当然のこと」ではあったのかもしれませんが、現実においては、「時代に即していない」という批判もあったようです。最近では、スペインで、エイズ予防のためのコンドーム容認発言が、数時間後に撤回されてスペイン国内では大きな失望の声が上がった、なんて話もあり、その裏には、「コンドームは不道徳なセックスをもたらす、というローマ法王庁の圧力があった」と言われています。ただし、この件に関しては、ヨハネ・パウロ2世が直接関与されていたかは、なんともいえないのですが。まあ、確かに「コンドームは不道徳なセックスをもたらしている」と言えなくもないけど、非カトリックの僕としては、「禁止しても不道徳なセックスはなくならないだろうから、容認したほうが『現実的』なのではないか」などと考えてみたりもするのです。引用文中のフンメス枢機卿の「これからのカトリック教会は避妊など性にかかわる問題で科学と向き合うことが大切だ」という声明は、明らかにヨハネ・パウロ2世の厳格すぎて、時代に即さない保守的な面を批判しているのだし、おそらく、こういう「リベラル派」の人たちは、今までさんざん煮え湯を飲まされてきたのでしょう。 信者ではなく、信教を持たない僕からすれば、「そのくらい厳格なほうが、宗教の教義としては、正しいのではないか」などと考えたりもするのですが、実際の信者からすれば、やはり、「なんとかしてくれ」というのが本音だというのもよくわかります。「何でもあり」では、かえって、求心力は無くなってしまうような気もしなくはないけれど。
宗教すら、現実への多大な妥協を求められる時代というのは、宗教家にとっては、なかなか大変なのでしょうね、きっと。「信仰心」がなければ務まらないのだろうけど、実際には「政治力」のほうが重視されがちな面もあるわけだし。 確かに「偉大な法王だったヨハネ・パウロ2世の後任となるのは誰にとっても難しい」。
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