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2005年02月06日(日)
「あなたにはうまく死ぬ準備ができているの?」

「神の子どもたちはみな踊る」(村上春樹著・講談社)のなかの一篇「タイランド」より。

【あなたは美しい人です、ドクター。聡明で、お強い。でもいつも心をひきずっておられるように見える。これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬこととは、ある意味では等価なのです、ドクター」
「ねえ、ニミット」。さつきはサングラスをはずし、助手席の背もたれから身を乗り出すようにして言った。
「何でしょう、ドクター?」
「あなたにはうまく死ぬ準備ができているの?」
「私はもう半分死んでいます、ドクター」。ニミットは当たり前のことのように言った。】

〜〜〜〜〜〜〜

 タイのバンコクでの国際学会にやってきて、そのまま現地でのバカンスを過ごしていた高名な病理医・さつき(「更年期」との記述がありますので、年齢は50歳前くらいでしょう)と、さつきの友人が紹介してくれた有能な現地ガイド・ニミットの会話の一節です。さつきは、甲状腺の研究の権威でしたが、離婚や現地での日本人バッシングに「何かが切れて」しまって、日本に戻って大学病院で働くことを決めています。そして、作品中に、ハッキリと明示されてはいませんが、彼女には「30年間引きずっていて、震災のときに、いっそ瓦礫の下敷きになってしまって欲しい」というくらい、憎み、そして愛していた男性がいるようです。
 僕はこの「神の子どもたちはみな踊る」が単行本化されたとき、発売直後に読んだ記憶があるのですが、そのとき僕は20代の終わりくらいでした。そして、この二人のやりとりについては、今回4年ぶりに読み返すまで、全然記憶に残っていませんでした。
 たぶん、「ゆるやかに死に向かっていくこと」に対して、実感がまだ無かったから、なのでしょう。
 今でも僕は「自分が生きていくこと」に精一杯なのですが、その一方で、ここに書かれているような「死ぬ準備」という言葉に対して、なんだかしんみりとしてしまう自分を感じたことに、自分でも驚いているのです。
 それは、年齢のせいなのかもしれないし、身近な人々の「死」というものに接する機会が多かったからなのかもしれませんが。
 
 でも、この言葉のニュアンスはなんとなくわかってきたような気がする一方で、「ゆるやかに死に向かう準備」というのが、具体的にどんなものなのかは、正直思いつかないのです。
 それは「遺書を書くこと」だったり「宗教的な知識を得る」ことだったり「生命保険に入る」ことだったりするのでしょうか?
 そういうのも、なんだか違うような気がします。
 「死ぬ覚悟をする」というのも、どうも違いそうだし…

 「うまく死ぬ」というのは、どういうことなのでしょうか?
 あるいは、50m走でいいタイムを出すための秘訣のように「ゴールを意識せずに、もっと先を目指して走る」ことのほうが、より良い生き方なのではないか、と思うこともありますし、「がむしゃらに生きる」というのが、そんなに間違っていることなのか?と問われたら、僕にはわからなくなってしまいます。「生への執着」というのが、人にとっての最大の煩悩だというのが、一面の真実だとしても。
 もちろん、ここに書かれている「ゆるやかに死に向かう準備」というのは、そういう「努力」を否定するものではないのでしょうけど……

 結局、今の僕には、この言葉が心に響いてきても、まだそれを具現化できるほどの覚悟も経験もないのでしょう。それは、僕自身にとっては、けっして悪いことではないのかもしれない。さて、近い将来、その「意味」がわかるときが来るのだろうか?

 「生きることと死ぬこととは、ある意味では等価なのです、ドクター」
 僕には、「生きること」すら、まだわかっていないのかもしれませんね。