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2005年01月21日(金) ■ |
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「不道徳なゴム製品」をめぐる、希望と失望 |
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日刊スポーツの記事より。
【スペインカトリック教会の司教協議会は19日夜、声明を発表し「道徳に反してコンドームの使用を勧めることはできない」と述べ、前日の協議会スポークスマンによるコンドーム使用の容認発言を公式に撤回した。
20日の同国マスコミは「ローマ法王庁がスペイン教会に訂正を強制」(パイス紙)「多くの国民の驚きと希望は数時間しか続かなかった」(ペリオディコ紙)などと一斉に「失望」を表明した。
スペイン・カトリック教会の司教協議会スポークスマン、マルティネス・カミノ司教は18日「コンドームもエイズ予防の文脈の中に位置付けられている」と述べ、初めてエイズ予防のためコンドーム使用を容認する考えを示していた。
しかし、19日の協議会声明は「スポークスマンの発言は記者の質問に短く答えたもの。コンドームは不道徳なセックスをもたらすというローマ法王庁の教義の枠内での発言だ」と弁明した。】
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世界に冠たる「性に寛容な国」である日本人の僕としては、「なんだか前時代的な話だなあ」と感じてしまう話なんですけどね。 医者の立場からすれば、コンドームというのはAIDSをはじめとするSTD(性行為を通じて感染する病気)の予防に有効なのは間違いないことですし。 前日の「コンドーム容認」の記事を読んだときには、ようやくこのスペインの教会も「現実的な転換」を行ったのだな、と感心したのに。
こういう「教会のアナクロニズム」に対して日本人の多くは、ものすごく違和感を感じるのでしょうが、実際のところ、こういう「宗教的な禁忌」という問題については、現代の日本ほど「なんでもあり」な国というのはほとんどないのかもしれません。僕が日頃意識している宗教的習慣なんて、「北枕」と「箸渡し」は縁起が悪い、ということくらいだし。
アメリカではいまだに妊娠中絶に対する議論があって、大統領選挙の際の争点にもされているのです。ただ、「中絶を認めない」という理念を持つ側が勝利を得たとしても、実際問題として「中絶禁止」が徹底できるかというと、それは難しいのでしょうけど。もしそんなことになれば、それこそ「裏家業」の人たちによる危険な堕胎が横行することにもなりかねませんし。 いや、日本だって、大部分の場合は「優生保護法」という法律の「経済的事情」という項目に基づいて、かなりの拡大解釈で堕胎を容認しているだけなのですけどね(もちろん「容認」であって、「推奨」ではないです)。
そもそも、宗教の教義というのは、その宗教が誕生した時代の実情に即しているものですから、人口問題が現在のように切実ではなく、「子どもをたくさん産んでも、全員が成人するのは難しい時代」の人々にとっては、「避妊」というのは、あまりメリットのないことだったのでしょう。その一方で、梅毒や淋病などの性感染症の蔓延を予防するためには、「貞淑」の概念も有意義だったわけです。逆に、パートナーを特定の人物に絞るというのは、「感染ルート」を極力減らすという意味でも有効なんですよね。もちろん今でも、不特定多数の異性との性的接触によって、HIVウイルスだけでなく、子宮ガンの危険因子であるHPV(ヒトパピローマウイルス)への感染の可能性が高まるので、不特定多数の相手との「不道徳なセックス」というのが危険であることは、間違いないのですが。
この記事を読んで、僕は最初は「いつの時代の話?」とか感じたものの、今あらためて考えてみると「不道徳なセックスが当たり前のことだと、僕は思っているのだろうか?」と、ちょっと自分でも悲しくなりました。 どうせみんな「不道徳なセックス」をするのなら、コンドームをつけておいたほうがいいじゃないか、って。 もちろん、性感染症の予防以外にも、コンドームにはいろいろな役割がありますけどね。
その一方で、コンドームがあれば、病気に感染するリスクがかなり減るから、少々遊んでも大丈夫、ということなのか?という気もするのです。 でも、確かに「感染予防さえきちんとすれば、『愛のない快楽のためのセックス』だって、そんなに危険なことではない」のかもしれません。むしろ、「気持ちいいんだから、それでいいんじゃない?」という主義の人も少なくないのかも。そういう主張に対して「だって、危ないじゃないか!」という反論は、なんだか急速に力を失っているような気もします。 「貞操観念」なんていうのは、もう死語なのでしょうし。 でも、本当に「病気にさえならなければ、それでいい」のかな… 「やっぱり、愛情がないと気持ちよくない!」という人が多数派であることを望みたい、というのは、僕の幻想なのでしょうか…
まあ、「道徳的なセックス」というのも、なんだかそれはそれで「健全なギャンブル」と同じくらいの違和感のある言葉ではあるんですけどね。
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