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2004年12月27日(月) ■ |
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「スタート地点に戻るための人生」 |
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共同通信の記事より。
【長崎県佐世保市の小6女児事件で犠牲となった御手洗怜美さん(12)の父で毎日新聞佐世保支局長の恭二さん(46)が事件を振り返って書いた記事が、27日付同紙朝刊に掲載された。記事には「親として記者として」との見出しが付けられ、普段は取材する側の記者が取材を受ける立場になった際の戸惑いも記されている。 記事によると、6月1日の事件直後は思い付いたことをメモに書き残していた。6月4日のメモには「怜美にも原因があるかのような印象を消せるか?1つ1つ報道をチェックできないし、反論は嫌」と書かれていた。 恭二さんはこうした記述について、今回の記事の中で「殺人事件で、記事は加害者の供述が中心になることが多い。しかし、供述が被害者に非があると取れるような『言い分』があるとき、被害者は傷つくばかりである。反論したくても被害者は精神的に対応できない」と説明している。】
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今まで「報道する側」だった御手洗さんが、「報道される側」になられて、いったいどんな気持ちを味わっただろう?そんなふうに考えると、御手洗さんの立場というのは非常に辛いものではなかったかな、と思えてなりません。報道関係者は、よく「知る権利」という言葉を使っていますが、例えばああいう形で人生を奪われた子どものプライベートなことを世間に発信する必要があるのかな?と僕は思いますし、被害者が若い女性でもあれば、日頃の行動とか交友関係とかがばら撒かれ、「どうしてこんな悲惨な事件が起こってしまったのでしょうか?」というキャスターの問いかけの裏に「夜遊びばかりしているからだろ」とか「ヘンな男と付き合っていたからだろ」とか、「出会い系なんかにかかわるからさ」というような「作り手の意図」を感じることがあるのです。 そういうのも「こういうことに気をつけましょう」という社会へのアピール目的だと言われるのかもしれませんが、本人の名誉が傷つけられたり、遺族が世間の好奇の視線にさらされてまで「アピール」すべきことなんだろうか?とも思います。遺族の中には、自分でアピールする人もいるみたいだし、こういうのは一概には言えないのでしょうけど、「アピールしたがる人」を基準に考えるのは、あんまりだと思います。だいたい、「知らない人に励まされ続ける」というのも、実際にそんな状況になれば、かえってストレスになりそうな気がしますし。「ありがとうございます」なんて、いちいち相手に礼儀を尽くすのは、けっこう大変なことでしょう。
正直、「報道番組」の名の元に、被害者のプライベートな情報を垂れ流すようなのって、けっこう多いですよね。まあ、それを観て「まあかわいそうねえ」とか「私も気をつけなくちゃ」とか言いながら、自分の幸せをかみしめる視聴者というのは少数派ではなさそうなんですが。 今回の怜美さんの事件にしても、ああやってさまざまな内容が報道されることによって、お父さんには大きなプレッシャーがかかっていたのでしょう。中には「怜美さんが加害者の女の子に冷たくあたっていた」なんて話もあれば、ふたりの掲示板でのやりとりなんていうのもありました。そんな掲示板でのやりとりなんて、とくに12歳くらいであれば、他人の目にさらされるのなんてイヤでイヤでしょうがないはずなのに。そして、「加害者のプライバシー」は優しい人々によって保護されているのに、被害者のプライバシーは、「悪いことをしたわけじゃないんだから」という名目のもとに晒され放題です。 もちろん、報道関係者の大部分は、そんな人ではないと信じたいのだけれど、そういう「数字をとらなければならない」「センセーショナルな記事を書かなければならない」という現場の状況をよく知っている恭二さんとしては、ひとりの父親としての立場とひとりの報道人としての立場の板挟みで苦しまれてもいるのでしょう。
「相手の立場を思いやる」というのはものすごく大切である一方で、あまりにそれにとらわれすぎていると何もできなくなってしまう、というのも現実なのかな、とも思います。医者は患者さんの痛みを思いやることは大事ですが、手術で切られる患者さんのことを想像しすぎて必要な手術を薦められなくなっては本末転倒ですし、電器屋に勤めていて、お客の身になりすぎて「ウチよりライバル店のほうが安いですよ」なんていちいち教えていては商売になりません。おそらく、家族のことを慮って「書かない」記者より、読者の興味を引くために「書ける」記者のほうが、「良い記者」なんですよね、きっと。
「隙があるから、被害者になってしまうんだ」「運が悪かったねえ」 でも、そのくらいの「隙」があるのが普通の人間なのだし、宝くじに当選することを信じられる人間が、自分や家族に偶然の不幸が襲いかかる不安に駆られないのは、それはそれで不思議なんだよなあ。
僕は拉致被害者の家族の方々を見ていて、いつもこんなふうに思うのです。この人たちは、自分のせいでもないのにこんなに辛い目にあいながら前進しているにもかかわらず、なかなかゴールにたどり着けません。しかも、そのゴールは、他の「普通の人」にとっての「スタート地点」でしかない。 「スタート地点に戻るための人生」っていうのは、なんだかとても悲しいけど、そこにたどり着かないと、すべては始まりすらしない。
本当は、恭二さんに今回の報道のありかたのおかしいところについて、具体的に指摘してもらいたいのだけれど、実際にはなかなか難しいのでしょうね。結局どこの世界でも、同業者を告発するのってやりにくいものだし、自分も同じことをやったかもしれない、なんて、つい考えてしまうからなあ…
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