|
|
2004年12月26日(日) ■ |
|
私にやさしくて、自分にもすごくやさしい人だった。 |
|
「上京ものがたり」(西原理恵子著・小学館)より。
【私の彼は 私にとてもやさしい人だったのでー 毎日がとても楽ちんだった。
ある時一週間後に二人のお金がなくなる事に気づき 私は日払いのコンパニオンのアルバイトに行く事にした。
その日は道が大渋滞で私を乗せた送迎バスはおくれにおくれー 宴会場についた時 お客さんは全員できあがっていた。
私はお酌した三倍の数、おっちゃんたちにさわられた。
コンパニオンママに今日はごめんなさいねと、日給8千円と焼ギョーザを1パックもらって家に帰った。
アパートに帰って今日の事をしゃべると彼は 「へえー」「仕方ないねえ」と言った。
8千円は次の日お米を買って水道代を払うとなくなってー
私の彼は 私にやさしくて 自分にもすごくやさしい人だった。】
〜〜〜〜〜〜〜
「やさしさ」っていうのは、いったい何なのでしょうか? 「やさしい人」というのは、長年異性の理想像の上位を占めているのですが、ここで売れない時代の西原さんのヒモをやっていた男の「やさしさ」というのは、端から見ると「甘いだけなんじゃないの?」とか感じてしまいもするのです。 誰にでもやさしい人、というのは、距離をおいて付き合う分にはありがたい存在なのだけど、逆にその人に近い存在になればなるほど、その「やさしさ」が、自分以外の人にばかり向けられていることに苛立ちを感じることも多いような気もしますし。「困っている友達を助けるために、家を飛び出していく人」だって、家族からすれば、「そんなヒマやお金があるなら、自分たちのために使ってよ!」と言いたくなるような「外面のいいだけの人」だったりもするんですよね。 「優柔不断」という言葉に「優しい」が入っているように、「やさしさ」というのは、けっして良い面だけではないのかもしれません。だからといって、「愛のムチ」とか言って自分の考えを押し付けるのが「真のやさしさ」だとも思えないのですが。 でも、やっぱり「やさしくしてもらいたい」のだよね、みんな。
僕は自分がもっと若かったころは「お互いに高めあえる関係」が理想だと考えていました。 今は正直、そういう「高めあう」という理想のもとに、常に緊張感を強いられるような関係」というのは、なんだかとても辛いなあ、と感じています。 そういう「ぬるま湯」みたいな関係って、人生においてプラスにはならないのかもしれないけれど、今日を生きていくためには、とりあえずそういう「やさしさ」がないと辛いな、とも思うし、毎日「もっと頑張りなさい!」と言われながら生きていくのは、本当にやりきれないのではないかなあ。 「そんなダメな男、別れたほうがいいんじゃない?」と思うような関係でも、実際はそういう「甘すぎるやさしさ」がないと、生きていけない人は、けっして少なくないんですよね。 たぶん僕も、そうなのでしょう。
昔は、「なんで大人って、こんなわかりきったバカバカしい『やさしさ』に騙されるんだろう?」って思っていました。 でもね、自分が大人になってみてわかったよ。 わからないから騙されているんじゃなくて、わかっているのにどうしようもなくて、騙され続けてしまう。
本物の「やさしさ」というのは、いったいどこにあるのだろう?
|
|