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2004年12月04日(土) ■ |
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「ハウルの動く城」における「世界の約束」 |
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映画「ハウルの動く城」パンフレット中に、児童文学作家・佐藤さとるさんが書かれた文章「約束事の世界」より。
【童話を書くようになり、主にファンタジーを手がけているうちに、気付いたことがある。それは、自分の書く非日常の世界には、その特殊な世界のリアリティーを支える、特殊な約束事がある、といことだ。
(中略)
そこでふと思い起すのだが、私がまだ子供だったはるかな昔、昭和の初期に見た短編漫画映画の一シーンに、こんなのがあった。 天才少年科学者が主人公で、この少年は自分の研究所を持っている。その研究所へ、オープンカーに乗った少年が颯爽と登場してくるが、自動車から降りた少年は、まったく思いがけないことをする。乗ってきた車を折り畳んでしまうのだ。二つに折り四つに折り、まるで布団を畳むように畳んでいって、やや大型のカバンほどになったところで、少年は手に提げて研究所に入っていく。
(中略)
漫画映画のことだから、わざわざ畳まなくても、自動車を小さくできるだろうに、少年は自動車の前を持ち上げ、具体的に手順を見せながら畳み上げていく。現実にはありえない出来事だが、観客は意表を衝かれながらも、自動車がカバンになってしまうという非現実を、大喜びで受け入れ納得する。『手順を尽くすところを見せる』というのが、この漫画映画に潜んでいた約束事の一つで、特に『見せる』というところが重要なのだろう。アニメーションだから当然といえば当然だが、どの時点でどのような見せ方をするか、そこが難しいにちがいない。】
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やっぱり、実際に書いている人の視点というのは違うものだなあ、と僕はこれを読んでいて思いました。ファンタジーのような「架空の世界」であれば、基本的に「何でもできる」という設定でもおかしくはないし、それこそ「必要に応じて、車が出たり消えたりする」というような「お約束」だってありえるのでしょうが、それだと、観客としては「リアリティーに欠ける」ような印象を受けてしまうのですよね。「自分の研究所を持っている、天才少年科学者」という設定そのものが、すでに、現実にはありえないフィクションなのですが、だからといって、「なんでもありの世界」では、けっして面白くならないのです。 「ドラえもん」だって、「あんなすごい『ひみつ道具』をたくさん持っているんだったら、もっとラクにお金を稼いだり、問題を解決できるんじゃないの?」と僕はいつも思うのですが(だって、ああいう道具を使えば、ジャイアンなんて簡単に「排除」できるはずだし)、そういう「過激な解決法」をとらないのが、「ドラえもん」の世界観なのです。そういえば、あの「ひみつ道具」のメカニズムみたいなのが、昔の「コロコロコミック」で解説されていました。フィクションの世界だからこそ、受け入れてもらうためには、「リアリティー」を無視するわけにはいかないのかもしれません。子供たちは、ありえない!とか思いつつも、そういった「リアリティー」に魅かれて、その世界に取り込まれてしまうのだから。
宮崎駿監督の「ハウルの動く城」という作品も、そういう観点でみれば、ある種の「世界の約束」を持っています。主人公を何でもできる「無敵の魔法使い」にしてしまうことだってできたはずなのに、実際はそうではなくて、油断も隙もあるキャラクターですし、巨大な「城」を動かすシステムにも「魔法だから」というだけの説明ではない、この作品なりの「リアリティー」を加えています。もっとも、原作がありますから、これらすべてが宮崎監督の創作ではないでしょうが。 あんまり「リアリティー」にとらわれすぎては「ファンタジー」として成立しないし、だからといって、「どうせウソなんだから」という開き直った姿勢では、誰も喜んで観てくれないんですよね、こういうのって。 「なんでもできるファンタジーの世界」だからこそ必要な「世界の約束」というのもあるのだな、と、あらためて考えさせられました。
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