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2004年11月30日(火)
「気づいていたのに、誰も止めてくれなかった」

読売新聞の記事より。

【電車内で高校1年の女子生徒(16)を取り囲み、体を触るなどしたとして、大阪府警少年課と泉南署が、岸和田市内の高校1―3年の男子生徒3人(16―18歳)と会社員の少年(17)を強制わいせつ容疑などで逮捕していたことが29日、分かった。
 同じ車両に乗り合わせた他の大人の乗客数人は見て見ぬふりで、女子生徒は「恐怖で声も出なかった。気づいていたのに、誰も止めてくれなかった」と、泣きながら話したという。
 調べによると、男子生徒らは10月11日午後10時10分ごろ、阪南市を走行中の南海電車(4両)内で、女子生徒を無理やり座席に座らせ、両側から挟み込むように座った2人が約25分間にわたり、体を触るなどした疑い。残りの2人は座席の前に立ち、「もっとやれ」などと大声ではやし立てたという。
 4人のうちの1人が女子生徒の同級生だったため、女子生徒側から被害届を受けた府警が捜査していた。】

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 もちろん、こんな酷いことをする少年たちが、いちばん悪いのは間違いありません。でも、この【「気づいていたのに、誰も止めてくれなかった」と、泣きながら話した】という女の子の様子からは、彼女を傷つけたのは、この破廉恥な少年たちだけではなかった、ということが伝わってくるのです。もし自分がこんな立場になって、みんな見ているはずなのに誰も助けてくれなければ、人間不信に陥るだろうし。
 とはいえ、これだけ少年犯罪が連日報道されているような世の中では、周りの大人たちだって、少年たちに対して恐れを抱くのはやむをえません。ここで「やめろ!」と、この性質の悪そうな少年たちを刺激したら、あとでどんな復讐をされるかわからない。そんなふうに想像すると、この「傍観していた大人たち」だって、「自責の念」を感じながら、見て見ぬふりをしていたのではないでしょうか。僕だって、その現場に居合わせたら、「まあ、同じ高校生同士のことだし、大人が口を挟んでも…」とか自分に言い訳をして、結局何もしなかったのではないか、という気がするのです。「どうして周りの人は助けてあげなかったんだ!」と憤る一方で、「そんな情けない大人」の気持ちもよくわかるのです。
 おそらく今回の事件は、まさに「氷山の一角」で、実際には被害届けが出されない(あるいは出せない)この手の犯罪は、もっともっとたくさん起こっているのでしょう。
 僕は最近、あまりに今の大人は子供に甘すぎるのではないか?子供を恐れすぎているのではないか?と感じることが多いのです。それは、小さい子供にしてもそうで、他人に迷惑をかける子供に対して厳しく接する大人は、どんどん減ってきています。なんといっても、「自分の子供はかわいいから、よそで何をやっても許されるのだ」という錯覚に陥っている親が多すぎます。そして、「多種多様な価値観」を認めようとするあまり、「なんでもあり」に陥っているのではないか、とも思うのです。何をやっても「子供だから」で、叱るにしても「他の人に怒られちゃうでしょ」。
 「怒られるからやるな」では、「怒られなかったら、何をやってもいい」と勘違いする子供だっているはずです。「友達親子」とか言うけれど、20も30も年が離れた人間を、親子だからという理由で同じ感性を持つ存在として理解できるというのは、あまりに楽天的なのではないでしょうか。

 実際は、古文書を解読したら「最近の若い者は…」と書いてあったなんて話もありますし、こんな腐ったガキばかりじゃないとは思うんですけどね。実際にこうして取り上げられるのは、極端な例ばかりだし。
 とりあえず、僕がこれを読んで思ったのは、まずは大人たちが、もっと勇気を持たなくてはいけないなあ、ということ。本当は、子供というのは、大人が考えている以上に大人を恐れているはずだし。そして、そういう勇気が、もっと正しく評価される社会にしなくてはならない、ということです。「危ないから、他人のフリしておいたほうが安全だよ」というような「処世術」ばかりが評価される世界は、あまりにも情けない。
 それでも、「じゃあ、暴走族が屯している中に飛び込んでいって注意する勇気があるのか?」と言われれば、「やっぱり怖いからダメ」なんですよね。こういうのには、やっぱり自分の「戦力」とか「状況」というのを考えずにはいられません。
 日本という国だって、北朝鮮の横暴には「ヒドイ国だ!」と反論できても(それができるようになったのすら、つい最近のことなんだけど)、アメリカ軍の兵士が沖縄で起こした問題については、なんとなく口が重くなってしまいますし。
 この大人たちだって、「もし自分が小川直也やヒョードルだったら…」と悔しい思いをしていたのかもしれないし、「力のない正義」というのは、少なくとも個々のケースに関しては、頼りない、絵空事にすら思えてくるのです。
 その一方で、そういう「力への希求」こそが、際限のない争いの元凶なのかもしれないけれど。

 それでも、もし僕がこんな光景を目にしたら、大人として、今度はがんばってみようと思うのです。ひょっとしたら、助けた女の子が、エルメスのティーカップとか贈ってきてくれるかもしれないしね。