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2004年11月17日(水) ■ |
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恋する権利、恋される権利 |
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「ニシノユキヒコの恋と冒険」(川上弘美著・新潮社)より。
【恋とはなんだろうか。人は人を恋する権利を持つが、人は人に恋される権利は持たない。わたしはニシノさんに恋をしたが、だからといってニシノさんがわたしに恋をしなければならないということにはならない。そんなことは知っていたが、わたしがニシノさんを好きであるほどはニシノさんはわたしを好きでないことがつらかった。つらかったので、ますますニシノさんを恋しく思った。】
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「ダ・ヴィンチ」の2004年12月号の「夜回り先生」こと水谷修さんのインタビューの一部です。
【僕はね、小さい頃から本当に友達がいなかった。”自分は、自分は”だった。3歳で山形の寒村にある祖父母の家に預けられ、母親のいない淋しい暮らしをしていた。人に自慢するものなんて何もない、貧しいから周りは相手にしてくれない、と思い込んでいた。いい友達もたくさんいたはずなのに、ずっとひとりで生きてきた。大人になってもやっぱりそれは変わらなくて、周りとはぶつかるし、孤立していたんだ。自分の生き方を正直に生きれば、ずっとひとりでもいいと思っていた。そんな僕に生き方を、まっとうに受け止めてくれたのが子どもたちだったんです。僕を求めてくれた。友達にしてくれた。だから大切にするんじゃないかな。人から求められるって幸せなことだから。】
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ひとつは「恋愛」、ひとつは、恋愛だけではない「愛情一般」についての文章です。【人は人を恋する権利を持つが、人は人に恋される権利は持たない。】本当にその通りで、自分が誰かを愛することは自由だけれど、誰かに自分を愛することは強要できないはずです。でも、やっぱり「愛されたい」「必要とされたい」というのが、大部分の人の本音ではないでしょうか。 そして、「愛される」ということに人は慣れてしまいがちで、すぐに「愛されて当たり前」という驕りを抱いてしまうわりには、「愛されないこと」に対しては、なかなか寛容にはなりきれないものです。ほんと、褒め言葉には感謝をあらわさないのに、悪口にはすぐに反応してしまうというのは、僕にとっても他人事ではなくて。
「見返りを求めるのなら、それは『愛』ではない」と、よく言われます。「ただ、惜しみなく与えるものが『愛』である」と。 しかしながら、本当の「与えるだけの愛」というのは、まずありえないのではないかな、と僕は実感しています。もちろん「好意」とか「お礼」などとして即物的に返ってくることを期待していないとしても「自己満足」だって、ひとつの「見返り」ではありますし。 僕もどちらかというと「他人に頼るのが得意ではない」人間で、水谷先生の言葉は心に響きます。「他人になるべく迷惑をかけないように頑張って生きているのに、どうして愛されないんだろう?」なんて昔は思っていたけれど、今から考えてみると「誰も頼りにできない(甘えられない)人間というのは、誰からも頼りにされない」のかもしれません。人間というのは、僕が考えていたよりもずっと、頼られたい、という生き物なのだなあ、って。 実際は、僕が「頼っていなかった」と自分で思いこんでいた時代だって周りの人たちは陰に日向にものすごくサポートしてくれていたのですけどね。 そんなことにも気がつかずに、「頼らない自分」に酔っていた、という情けない話。
「愛される権利」なんて、誰にもないのです。もちろん「愛する権利」だって、過剰に行使してストーカーになっても困りますが。 「自分を愛すること」を誰かに強要するよりも「愛してくれる人」「求めてくれる人」を大切にしたほうが幸せに近いはずなのに、どうしてそういうわかりきった「妥協」ができないんだろう? でも、やっぱり「愛されたい」んだよね、みんな。
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