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2004年11月13日(土) ■ |
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「ネットバトルのしかた・十箇条」 |
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「まれに見るバカ女」(別冊宝島編集部・編、宝島社)の遙洋子さんの項より(書かれているのは、ルポライター・与那原恵さんです)。
【八〇年代、リブを知らない女性たちにとって上野(千鶴子、略歴はこちらを御参照ください)が「ヒーロー」となった遠い昔を、遙洋子は追体験しているのかもしれない。そう、上野が八〇年代のヒーローになり得たのは「論争だけはめちゃくちゃ強かった」からだと斎藤美奈子は書いているが、遙が上野に学んだ理由も、何より「みごとに勝ち続けている」からなのだから。そして遙は、「ケンカのしかた・十箇条」を会得する。 いわく、開き直る、「わからない」「○○って何」を連発する、相手の質問をそのまま返す。広い知識をもつ、ワクを越えた発想をする、言葉に敏感になることは大事。相手をふりまわすには、間をあけないこと。声を荒げない。そして以上すべてに通ずるのは勉強すること、だそうだ。 本人はケンカと言うが、つまり「論争」だ。こういう論争、楽しいですか。私はイヤですね。とくに十箇条前半部分の態度の人とは話をしたくない。お互いを理解し合う、その差異を認め合うという態度ではないと思う。全共闘の公開討論じゃあるまいし。 そういえば、こういう「ケンカ」をテレビでやるとバツグンに強い女性がいましたね、野村沙知代。先鋭的フェミニストに特徴づけられるのは、自分はゼッタイに正しいと確信する態度である。しかし、学問というものは、自らを疑うことが求められるのではないか。】
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遙洋子さんのサイトはこちらです。今回は、遙さんの主張とはあまり関係のないことを書きますが、ご参考までに。
この「ケンカのしかた・十箇条」は、そのまま「ネットバトル」にも応用できそうな感じです。 WEBサイトをやっていると、「世の中にはけっこう『議論好き』の人が多いのだなあ」と感心するのですが、正直なところ、僕は「ディベート」というのが苦手です。なんだかかみあっていない内容をお互いに投げつけあって、「結論を出す」ことよりも「相手を言い負かす」ことばかりに熱心な人ばかりのような気がするし、「ディベート好き」という人って、内容で相手を説得するというよりは、「テクニック偏重」の人が多いと思いませんか?「アラスカに住んでいる人々に氷を売るのがマーケティングの力だ」という有名な言葉があるのですが、極論すれば「ディベート好き」の人のなかには、「氷を売ることの意味」よりも、「氷を売ることができるという自分の技術の証明」を重視している人もいるような印象があるのです。 この「ケンカ(論争)のしかた・十箇条」を読んで、僕は暗澹たる気持ちになりました。確かに、後半の「広い知識を持つ」から「勉強する」という部分は基本的に納得できるのだけど(間をあけない、というのはなんだかまくしたてられているみたいでイヤ)、前半の【開き直る、「わからない」「○○って何」を連発する、相手の質問をそのまま返す】という光景は、テレビの画面上だけでなく身近なところでもよく目に(耳に)するものではないでしょうか。「ディベートのテクニック」の名の下に、こんなふうにエキセントリックに相手を攻撃して、あまりのとりつくしまの無さに沈黙してしまった相手を「論破」して喜んでいる人は、けっして少なくはないのです。 ネット、とくに個人サイトなんているのは、僕も含めて「何か言いたい人々」の集合体なわけですから、「ディベートしたい人」の割合が高いのは必然的だという面もあるでしょう。でも、「相手の話を聞く姿勢」がなくて、「オレが正しい!」という主張を大声でやるだけの「ディベートの達人」であることに、何の意味があるのでしょうか? 周りは納得したから黙っているのではなくて、辟易して黙っているだけなのかもしれないのにね。
本当の『ディベート』に必要なのは、喋り方や相手の困らせ方という表面上のテクニックではなくて、相手を理解しようという気持ちなのだと思いますし、大事なのは「自分が勝つこと(あるいは、勝ったような気になること)」ではなくて、「より正解に近い結論にたどり着くこと」のはずです。
あなたが欲しいのは「有意義な結論」ですか? それとも「優越感」?
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