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2004年10月20日(水) ■ |
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「頑張れ」って、なんて無責任で、バカなことを言ったんだろう。 |
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スポーツニッポンの記事「スポニチ好奇心」より。
(元F1ドライバー、片山右京さんの回。現在は(通称)パリ・ダカールラリーに参戦されるなど、F1以外のカテゴリーのレースで活躍し、登山家としても知られています)
【「挑戦をやめるわけにはいかないんです。」 人生観が変わるほどの出来事があったのは95年のことだった。 白血病を患う17歳の少年を見舞う機会があった。レーサー志望の少年にかけた言葉は「頑張れよ、あきらめるな」。だが2ヵ月後、彼は亡くなった。「頑張れなかったって、右京さんにあやまってほしい」という遺言を伝え聞き、頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。 「なんて無責任な、バカなことを言ったんだろう。簡単に、頑張れだなんて」。言葉だけの激励ではダメだ。頑張れと言うからには、自らが頑張る行動をしなければ。そう心に決めた。F1では限界を感じて引退したが、山には挑戦し続けられる。「頑張ることは恥ずかしくないが合言葉。だからボクもどんどん頑張っていかないと」】
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このエピソードを聞いて、「頑張れ」という言葉の「重さ」について、僕はあらためて考えさせられました。「頑張れ」というのは、本当に簡単に口にしてしまう「応援の言葉」だけれど、僕は果たして、他人にそんな言葉をかけられるだけの「責任」を負って、それを口にしているのだろうか?と。 実際のところ、「苦しんでいる、もしくは頑張っている誰かに何か言葉をかけなくてはならない場面」というのは必ずあるわけで、そういうときに、僕もつい、この「頑張れ」を口にしてしまうのです。 「もっと頑張れ」と思っているわけではなくて、まさに「他にいい言葉が思い浮かばないための、苦し紛れの選択」として。「とりあえず、頑張れ、って応援しておけば無難だろう」というような感じで。
僕だって、この言葉をかけられて、「もう頑張ってるよ、他人事だと思って!」と言い返したくなることだって、あるのですけど。 とはいえ、後から記憶として残っているのは、「そういえばアイツはあのとき、『頑張れ』って応援してくれたよな」ということだったりしますから、「何も言わずに見守る」よりは、とにかく言葉をかけるというのが大事なのかもしれない。 「黙っていても伝わっているのではないか」というのは、あまりに過剰な期待であることが多いものですし。
それにしても、この右京さんの述懐は、「誰かに憧れられる人間」というのは、いろんなものを背負って生きていかなければならないのだ、ということをあらためて思い知らされます。 もちろん「ヒーロー」「ヒロイン」でなくても、誰かに「頑張れ」と声をかけるというのは、このように自分に対してもなんらかの「責任」を生むものなのですよね。まあ、多くの場合、テレビ画面に向かっての「頑張れ」に、そこまでの真摯さを持っている人間なんてほとんどいないわけですが、身近な人への「頑張れ」という「励まし」というのは、けっこう重いものなのです。病床にある人に、ずっと「頑張れ」と声をかけていた家族が、最期に「もう頑張らなくていいよ…」と口にしたとき、僕はそこに深い愛情を感じることだってあるのです。
でも、「もう頑張らなくていいよ」と右京さんがこの少年に声をかけるわけにはいかなかったでしょうし(そもそも、そんなことをこの少年も望んでいなかっただろし)、右京さんは、「無責任」でも「バカなことを言った」ワケでもないと僕は思います。他にもっと、「かけるべき言葉」があったのだろうか?と考えてみるのだけれど、それは僕には思いつかなくて。 とはいえ、僕がそう右京さんに言ってみたところで、右京さんの「自責の念」は、変わるはずもありません。それは、右京さん自信が背負ってしまった「責任」なのだから。 「頑張れ」って言うのは無責任だから、言わないようにするっていうのは、確かに正論なのでしょう。でも、「頑張れ」って他人に自信を持って言えるように生きる、というのが、本当の「責任のとり方」なのかもしれませんね。それこそ、「口で言うのは簡単」なことなんだろうけど。
右京さんに「頑張れ」って言ってもらえて、この少年は嬉しかったのだと僕は思いたい。それが、生きている人間の勝手な思いこみだったとしても。
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