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2004年09月02日(木)
本当に偉いのは二番目に食べた人

「三谷幸喜のありふれた生活3〜大河な日々」(三谷幸喜著・朝日新聞社)より。

【初めてナマコを食べた人は偉いという話を聞くが、それは大きな間違いである。どんな時代にも、変なものをふざけて口に入れるお調子者はいるのだ。本当に偉いのは二番目に食べた人。二番目があるかないかで、それが 文化として定着するかどうかが決まる。続く人間がいなければ、最初の人間はただのおバカだ。】

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 これは、三谷さんが「日本最初のシットコム」(実際にどんなものだったかは、番組をご覧になった方はご存知だと思います)である、「HR」という作品について書いた文章の一部です。
 僕などは、「やっぱり、最初に食べた人が偉んじゃないかな、とりあえず、誰かが食べて無事なら『毒はなさそう』ってことはわかるし」という印象を持っていたのですが、確かに、その人ひとりで終わってしまったら「昔、あのイビツな生き物を食べたことがある人がいるらしい」という伝承だけが残って、ナマコは日本の食文化のひとつとして定着することはなかったでしょう。
 あるいは、昔の人は石ころとか土とかだって、誰かが口にしたことはあったのかもしれません。
 でも、後に続く人がいなかったから(まあ、最初に食べた人にとっても美味しくなくて、他人に薦めることもなかったでしょうし)、これらのものは「食べられないもの」として定着しているのではないでしょうか。

 そう考えてみると「文化」というのを定着させるためには、「後継者」というのがどうしても必要不可欠ではあるんですよね。世の中には「特別な才能を持っていた人にしかできなかったため、一代かぎりで終わってしまった文化」というのも少なくないはずです。
 能とかダンスとか短歌とかが定着したのは、そのもの自体が人の心や体を感動させられるものだったのと同時に、後継者を育成するシステムがしっかりしていたり、学び方が手軽だったりといった要因があって、「二番手」が延々と受け継がれてきているからなのです。

 「創始者」ほど目立たないけど、続いていくために大事なのは「二番目の人」。とはいえ、最初の人に次の人を惹きつける魅力がないと、どうしようもない気もするんですけどね。
 最初に食べた人が渋い顔をしてたら、ナマコを食べようという「二番手」は、なかなか現れないだろうから。