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2004年08月28日(土)
演劇>テレビ番組、映画、小説、マンガ

「名セリフ!」(鴻上尚史著・文藝春秋)より。

【『演劇は時代の鏡である』という言い方があります。演劇には、その時代がまるで鏡のように映されているという意味でしょう。
 では、テレビ番組や映画、小説、マンガは時代の鏡ではないのでしょうか?
 そんなことはないはずです。その時代、その時代が、テレビ番組や映画、小説、マンガにも刻印されているはずです。
 ただ、もし『時代の鏡度』なんて単位があるとすれば、演劇は、他のメディアよりは鏡度の数値は高いはずです。
 もちろん、理由があります。

(中略)

 演劇は書いてから1ヵ月後に発表できるメディアです。だからこそ、観客の数は少ないのです。テレビに比べたら、何千、何万分の一です。映画のように長く愛されるものでもありません。公演が終われば、風に記された文字のように消えていきます。
 書いたものに対して、一番、修正を求められないのも、一番、動く金額が少ないからです。
 酒酔い運転で交通事故死なんていうテレビシナリオは、自動車会社やビール会社がスポンサーでは、間違いなく修正を求められるでしょう。
 演劇はタバコの害を語るのも、アル中の人間が出てくるのも、牛乳の効用に疑問を呈するのも自由です。それは、逆に言えば、巨大な金額が動いていないからです。(とほほほ)
 演劇をやっている自分が言うのもなんですが、メディアで世の中を変えようなんてすごいことを思った場合は、テレビ番組でまず訴えないとだめでしょう。次は、売れている雑誌に載っているマンガですか。次が全国メジャー公開の映画。かなり落ちて、小説。
 ま、演劇で訴えている限り、なかなか、広範には届かないと思います。
 で、なかなか届かないから自由度が高い、となるわけです。
 で、自由度が高いから、作家の直接の思いを刻みやすいメディアだということです。
 そして、広範に届かない代わりに、深く深く届くことがあるメディアなのです。
 時代のまさにその瞬間、時間差もなく、スポンサーの修正も入らず、作家の思いが直接届くことがあるのです。
 その作品には、奇跡的に時代の息吹がまるごと込められています。
 演劇は、そういう作品が生まれる可能性が、他のメディアより一番高いのです。だからこそ、『時代の鏡度』の数字が一番高いのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 長くなってしまったので(中略)にしてしまいましたが、その部分には、【映画では企画から実際に観客が観るまで、平均2年くらいはかかるし、テレビでは動く金銭が大きいためにスポンサーの意向を反映せざるをえない面が大きい、小説、マンガでは、コンクールに応募して入選、発表まで1年以内くらい】という、それぞれのメディアの「時間差」が書かれています。
 鴻上さんは「演劇人」ですから、当然、演劇という表現方法のメリット、デメリットは知り尽くしているはずです。そして、これがそのひとつの結論なのでしょう。
 しかしながら、この『時代の鏡度』について考えると、「多くの人の目に触れる」とか「商業的に成功すれば儲かる」という要素と「表現の自由度」とか「リアルタイム性」というのは、常に反比例しがちなのだな、ということがわかります。
 テレビ局のアナウンサーは、「多くの人に語りかける機会」を持っていますが、アナウンサーたちには、基本的に「自分の表現」というのは許されていないわけです。まあ、それは極論としても、放送作家たちだって、「お約束」があるのでしょうし、「自殺は描けても、交通事故は出せない」というような制約だって、スポンサー側の意向によって出てくる、ということになります。要するに、TVというのは「報道の自由」と言いながらも「検閲済み」のものが流されているわけです。
 映画にしても、「表現の自由」のほかに「商業的成功」が期待できないものについては、人目に触れるような形にすることは難しそうです。「キル・ビル」や「華氏911」のような映画を製作することが許されるのは、彼らがタランティーノやマイケル・ムーアだからでしょうし。
 もちろん、これらの映画が完成後に高い評価を得たり、ファンに愛されているのは、製作者側の実力と努力のたまもの、ではあるのですが。
 さて、全く無名の新人が同じ企画書を持ち込んで、はたして採用してもらえたかどうか?

 僕も最近舞台を見に行くことが多いのですが、この鴻上さんの書かれているような「時代の空気感」というのは、確かに劇場には濃密に漂っているような気がするのです。まあ、その要因のひとつには、劇場に来る観客のほうの、テレビを観るような受動的な態度ではなくて、「自分は舞台も観に行くような、アンテナの高い文化的な人間なんだ」という「あるいは、ちょっと鼻につくような文化エリート意識」みたいなものも入り混じっているとしても。

 そして、「これはスゴイ!」と感じされられるものが多いのと同時に、「なんじゃこりゃ?」と思うようなものに出くわす可能性も、舞台というのは映画やテレビよりも高確率のような気がするのです。
 すぐにチャンネルを変えられないだけに、これは辛い。

 玉石混合で、当たりは少ないけれど、ときどき、とんでもない大当たりが隠れている、そんな世界。

 そういうふうに考えていくと、個人サイトの世界って、ある意味「演劇的」なのかもしれませんね。「お金が動かない」だけに制約が少ないところとか、『時代の鏡度』の高さとか。
 
 裏を返せば、「やっぱり、社会を変える力」なんてのは無いよなあ」ということも言えるんですけどね。