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2004年07月31日(土)
笑顔で写真にうつれない理由

「三谷幸喜のありふれた生活3〜大河な日々」(三谷幸喜著・朝日新聞社)より。

【僕のように容姿に自信のない人間は、プライベートではまず自分の写真をを撮らない。実家にある家族のアルバムの中にも、思春期以降の僕の写真はほとんどない。結婚してからは、妻や犬猫たちと写真を撮るようにはなった。年に1回、夫婦の肖像を写真館で撮り続けてもいる。だが、いまだに写真の中の自分を正視することは、なかなか出来ない。
 自分の顔が嫌いというのは、どういうことなのだろう。写真を見てげんなりするのは、なぜ。本当はこんなはずではないと思っているから?自分の顔に何を期待しているのか。マネジャーの白井美和子さんは、「それは逆の意味での自意識過剰ね」と言う。かもしれない。

(中略)

 そういえば、同世代の劇作家と対談したとき、ビジュアル系の彼は写真撮影の前に専属スタッフにメイクをしてもらっていた。「守るべきイメージ」がある人は、それはそれで大変だ。
 ひとつだけ、撮影のときに困ることがある。カメラマンの皆さん、どうか僕に「笑って下さい」と注文しないで下さい。ますます表情が硬くなるし、普段、人に笑ってもらう仕事をしている人間は、「笑い」に関して敏感なのだ。「笑って下さい」と言って人が笑えば、こんなに楽なことはない。だからその言葉を聞くと、いつもちょっとだけ腹が立つ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も白井さんが仰るところの「逆の意味での自意識過剰」で、自分の顔を鏡で正視するのが大の苦手なので、ここで三谷さんが書かれていることはよくわかるような気がします。
 「自意識過剰」という意味では、「自分の顔を鏡に映してウットリ」という人と同じなのかと考えると、どうせだったらそういう顔に生まれてみたかった、などとも思うのですが。

 ところで、この後半部分の「笑って下さい」に関する文章を読んで、僕は長年の疑問が氷解しました。
 「どうして自分は、写真撮影で『笑って下さい』と言われると、あとで見たら自分で悲しくなるような『引きつった表情になるのだろうか?」と、ずっと悩んでいたのです。
 あれは「笑おう」=「楽しいことを思い出そう」と考えている限りは、絶対に僕にはムリなんだなあ、ということがよくわかったのです。
 というか「自然に笑おうといくら努力したところでムダ」ということなのでしょう。
 実際に「カメラの前で素敵な笑顔を見せられる人」というのは、おそらく「笑おうとしている」のではなくて、「『笑っている顔』という表情を作ろうとしている」のですよね。
 別に楽しいことを考えているわけじゃなくて、頬の筋肉をこのくらい緩めて、目はもう少し開いておいたほうがいいかな、とかいうプログラムが頭の中で作られていて、「笑顔」が必要な状況で、意識的・あるいは無意識的にそういう表情ができるようになっているのではないでしょうか。
 確かに「写真を撮られるのが好きで好きで自然に笑顔になる」という人もいるかもしれませんが、別に面白くもないのに「笑って」といわれても「自然に笑える」わけがないのです。
 「自然な感じの作り笑顔」は可能だとしても。

 「自分は写真うつりが悪い」と僕などはいつも憂鬱なのですが、鏡も見ず、自分が写った写真も見ないという不勉強ぶりでは、写真うつりが良くないのも当然ですね。
 努力してもムダ、という結果を自分で出してしまうよりは、「写真うつり悪いからなあ」なんて言い訳ができるほうが精神的にマシなのかな、という気もするのだけどさ。