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2004年07月24日(土)
「お門違い」な、お笑い番組たち

「週刊現代・2004/7/10号」(講談社)のコラム「視聴率のトラウマたち」(桧山珠美・文)より。

【とくに『エンタの神様』は、ネタの途中で切ったり、ネタをテロップで流したりと、芸人殺しの演出が過剰だ。ぶつ切りのVTRではそれぞれの芸人特有のテンポが楽しめないし、オチの部分だけ字を飾ったテロップなどは、「ここで笑えよ」と強要されているようで、不愉快きわまりない。

 芸人がどんなにつまらないネタをやっても、司会者である福澤朗アナと白石美帆は温かい拍手で迎えるのだが、これもお門違いであろう。
 かつて、横山やすしが司会を務めた『ザ・テレビ演芸』に若手時代のダウンタウンが出演した。その際、やっさんは「お前らの漫才はチンピラの立ち話じゃ」と一喝し、ダウンタウンも発憤して今の地位を築いたというエピソードがある。まだまだ、ネタの質にばらつきがある若手芸人にとって、必要なのは温かい拍手ではなく、やっさんの一喝ではないか。】

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 この前半部分を読んで、僕は「フォントいじり」(テキストサイトなどで、いわゆる「笑いどころ」を拡大して表示する技法」を思い出してしまいました。テレビであんなふうにテロップが出るようになったのは、僕の記憶の限りでは「HEY!HEY!HEY!ミュージックチャンプ」がいちばん古かったような気がするので、おそらく、テレビで使われはじめたほうが時期的にはかなり早かったと思うのですが。
 でも、確かにああいうふうに「笑いどころ」を指定されるというのは、なんとなく「くどいな、聞こえてるよ!」と言いたくもなるのです。それに、「そんな当たり前のところを強調したって、面白くないだろ…」と言いたくなるような使い方も多いですし。
 まあ、その技法を使っているテレビ番組の数はけっして減っているわけではないですから、僕みたいに「なんとなくテレビを点けている視聴者」にとっては、便利ではあるのかもしれませんけど。
 
 後者のほうに関しては、実際に番組で福澤アナや白石さんが若手芸人に対して、「ネタがつまらなかったから」といって、冷たい態度をとったりすれば、それはそれで番組としては成り立たないような気がしますから、それはちょっと難しいし、意味ないだろうな、とも思います。あの横山やすしさんならともかく、司会者2人がそんな態度をとることに対して、視聴者としては「いたたまれない気持ち」にしかならないのでしょう。

 先週、「笑っていいとも」に爆笑問題の2人が出演していたのですが、彼らは、まだ若手だった時代にはじめて大阪のステージに立ったときの思い出話をしていました。「本当に客席が引いていくのが伝わってきて、いたたまれなかった。あんなに辛いことはなかった」って。

 芸人たちにとっては、「やっさんの一喝」よりも、「正直な客の反応」のほうが、よっぽど怖いのではないかなあ。ダウンタウンの松本さんが、著書で「自分たちのネタで笑わないのは、客の質が悪いのだと思っていたけれど、それは、自分たちのしゃべりの声の大きさとか喋り方とか、ネタの内容以前の根本的なところに問題があったことに気がついた」というようなことを書かれていたのですが、それを見つけたからこそ、今の成功があるのだと僕は思うのです。
 
 とはいえ、今は売れてしまえばネタよりもバラエティ番組の司会のほうが大事になってしまうみたいなので、ネタの修行にどのくらいの意味があるのか、ちょっと疑問ではあるんですけどね。