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2004年07月19日(月)
われわれは「準備」に対して「準備」するのだ。

「知識人99人の死に方」(荒俣宏監修・角川ソフィア文庫)より。

【現在、多くの人が「死」に関心を抱いているのはたしかであるが、その対象である「死」をあまりに医学的に解釈しすぎてはいないだろうか。当人が人生の最終地点に体験するのは、そのような客観的な「死」ではない。「臨終」というきわめてプライベートな瞬間なのである。そしてこのプライベートな”見せ場”は、見せ場(クライマックス)であるがゆえにわれわれの関心を魅きつける。
 モンテーニュは言った−「われわれが準備するのは死に対してではない。死はあまりにもつかの間のできごとである。われわれは死の準備に対して準備するのだ」。
 そう、死の準備に対する準備として、他人が迎えたさまざまなクライマックスを検証することは、かなり効果的な作業にちがいない。】

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 これは、監修者である荒俣さんが、この本のまえがきとして書かれたものなのですが、「クライマックスの検証」というのが、実際に効果的な作業かどうか、というのは、正直なところ、僕にはよくわかりません。それでも、「偉人」とされる人々の伝記を読むことが、ある種の「生き方」の規範となるように、他人の「死に方」というのも、確かになんらかの参考にはなるのでしょう。
 まあ、この文章の中で僕にとって印象深かったのは、モンテーニュの言葉だったのですけど。
 それなりに長く生きていれば、冗談交じりに「どんな死に方がいいか?」なんて話をした経験がある人というのは、けっこう多いのではないかと思います。そういう話題になると「子供や孫に囲まれての緩やかな大往生」を望む人と同じくらい、「心臓麻痺とかで、アッサリ苦しまずに死んでしまいたい」という人って、僕の周りには多かった記憶があるのです。
 「でも、それっていろんなことが中途半端になったりするんじゃない?」という問いかけに対して、ある女の子はこんなふうに答えました。
 「私、死ぬのはそんなに怖いと思わないんだけど、『死んでいく』っていうのはすごく怖いんだよね。だから、死ぬとしたら一瞬のうちに、がいいな」って。

 「死後の世界がある」という確信が持てるほど、僕は宗教的な人間ではありませんから、死というのは「電池が切れるようなものだろうな」という印象を持っています。もちろん、実際に死んだことはないので、本当のところはわかりませんけど。
 でも、彼女が言う「死んでいくこと、死に向かっていくことの怖さ」というのは、さまざまな「人が死んでいく現場」での経験で、わかってきたような気もするのです。
 確かに、「死」は、今のところ人類に共通のものだけれど、「死んでいく過程」というのは、人それぞれ違うものですし。

 本当に大事なのは、「どのように死ぬか」ではなくて、「どのように死んでいくか」なのでしょう。わかったつもりで「死の準備」をしていても、実際はそれでは準備不足。

 「われわれは死の準備に対して準備するのだ」。
 僕なんか、まだ「死の準備」すら全然できていないんですけどね。