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2004年07月06日(火)
「死」から隔離される子供たち

読売新聞の記事より。

【横浜市磯子区の市立中学校で先月30日、3年生の数学の授業を担当していた男性教諭(48)が確率の説明をする際、黒板に「死」など3種類の文字があるくじ引きを描き、引かれた「死」のくじの隣にクラスの男子生徒の名前を書き込んでいたことが6日、わかった。市教育委員会は「不適切な指導」として教諭の処分を検討している。

 同市教委や同校によると、教諭は黒板に袋の絵を描き、その中に当たりを示す「当」の字を二つ、ハズレの「ハ」を四つ、「死」を一つ書き入れたうえで、「当」の後に「死」を引く確率を出題。くじ引きが行われたものと想定して袋の外側に「当」「死亡」と書き、その隣に、クラスの男子生徒の名前をそれぞれ書き込んだ。

 授業後、ほかの生徒が別の教諭に「あのやり方はよくないと思う」と指摘し、校長が事実関係を調査して授業内容が発覚。男性教諭は校長に対し、「確率からロシアンルーレットや死を連想した。死という言葉を使うことで、授業に親しみやすさが出ると思った。(くじの隣に書き込んだ)生徒の名前は無作為に選んだ。他意はなかった」と釈明したという。

 教諭は今月2日、「不適切な例を挙げて申し訳なかった」とクラスで謝り、5日には「死亡」とされた生徒と保護者に対して謝罪した。クラス全生徒のノートを回収し、該当部分を消すなどの対応を取るという。

 市教委小中学校教育課は、「生徒の名前と死を結びつけて例示するのは大変不適切。生徒の心情への配慮が足りない。事実関係を調べたうえで厳正に対処する」としている。】


毎日新聞の記事より。

【小6同級生殺害事件が起きた長崎県佐世保市の市立大久保小が家庭科の調理実習を見合わせている。「包丁などの刃物で事件を思い出す児童がいるかもしれない」と配慮したものだが、児童の中には「人気授業」の中止に落胆している子もいるという。2学期以降に再開する方針だが「判断が難しい」と学校側も頭を悩ませている。】

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 こういう記事を目にするたびに、先生たちも大変だなあ、とつくづく思います。
 最近、いろいろな点において、学校という場所がものすごく「神経質な場所」になっているような印象を僕は受けているので。
 前者の例では、「確率」=「ロシアンルーレット」という発想は、そんなにとっぴなものではないですし、「確率というものの切実さ」を実感するには、けっして間違った例題ではないと思うのですが。
 もっとも、教育委員会では「生徒の名前と『死』という言葉を結びつけたのが問題だ」ということで、それは確かに「適切ではない」のかもしれないけれど、相手は中学3年生ですから、そこまで「死」という概念から彼らを隔離する必要性があるのだろうか?とも思うのです。
 僕が子供のころ(20年くらい前になってしまいますが)は、この程度の「教師と生徒のイジリ合い」というのは、そんなに珍しいものではなかったんだけどなあ。
 ひょっとしたら、この先生が生徒たちに元々嫌われていて、「責めるためのいい口実」になった、ということすら想像してしまうのですが。
 まあ、やりすぎだとは思うけど、新聞沙汰になるようなことかな…という気はします。
 今回の件とは直接の関係はないのかもしれませんが、逆に「死」という概念を表面上子供たちから隔離させようとしすぎて、かえって、歪んだ興味を持たせてしまっているのかもしれません。
 
 後者は、「神経質」とはいえない例でしょう。彼らは「死」に近づきすぎてしまったから。確かに、まだ刃物を使う実習は、この子供たちには時期尚早かな、とも思いますし。
 でも、その一方で、彼らが一生包丁やカッターナイフと縁のない生活を送れるかというと、そんなことはありえません。
 もちろん、専門家の意見などを聞きつつ、調理実習を再開していくのでしょうが、やっぱり「何か」を感じずにはいられないだろうな、想像してしまいます。
 「じゃあ、いつになったら大丈夫なの?」と問われて、答えられる人間はいるのでしょうか?

 おそらく、人類にとって、今ほど「死との距離感」が掴みにくくなっている時代はないのだろうな、と思います。歴史上、現代の日本くらい、こんなに長い間にわたって、飢饉とか疫病とか戦争とかで、人が当たり前のようにバタバタと死ぬ、という光景がみられなかった時代は、ほとんどないはずだから。その一方で、テレビ画面の向こうには、食傷してしまうくらいの「死の光景」が広がっているのです。
 「日本は街中で銃の音がしないのが不思議」と言ったというイラクの子供にとっては、「確率」=「ロシアンルーレット」というのは、たぶんリアルな概念なのではないかなあ。
 
 子供たちにとっての「死」との距離感なんて、いつの時代、どこの場所でも非常に難しいことは、わかりきったことなのですが。