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2004年07月03日(土)
「泳げない人間」であることのコンプレックス

「このつまらない仕事を辞めたら、僕の人生は変わるのだろうか?」(ポー・ブロンソン著・楡井浩一訳・アスペクト)より。

(若きプログラマー、ジェイミー・ニコルソンさんの物語の一部。彼は、「学資ローンを返して中古車を買えるくらいの金額を<ネットスケープ>で稼いだ」という、優秀なプログラマーだったそうです。)

【ジェイミーは、いかに自分が狭量な人生を送ってきたかに気づいた。もともとニッチな一点集中型だった。それが明らかになったのは、彼女にヨットまで泳ごうと言われたときだ。ジェイミーは正しい泳ぎかたを知らなかった。プールでなら水をかいて泳ぐふりができたが、囲いがない湾の水中は、まるで地獄だった。ついて行くべきではなかったのだ。彼女は仰向けに浮かび、一方のジェイミーは事実上溺れながら、おのれのぶざまさを噛みしめていた。いくら最新のトランジスタ物理学を知っていても、泳げない人間に何の値打ちがあるだろう!
 持ち金を使い果たして帰国の途についたジェイミーは、職業でなく自分を変えようと決心した。「特殊技能なんて昆虫にでも任せておけばいいんだ」】

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 僕もある種の「専門職」に従事している人間なのですが、ジェイミーさんの感じたコンプレックスというのは、なんだかとてもよくわかるような気がするのです。自分が資格を取るまでは、「この仕事に就くことこそが、自分を高めて、特別な人間にしてくれるはず」なんて、ずっと自分に言い聞かせてきたのにね。
 もちろん、僕は自分の「専門的な仕事」というものに、それなりにプライドも持っているのですが、いろんなシチュエーションで、「でも、僕は人間として何かを置き忘れてきたのではないだろうか?」というような違和感にとらわれることがあるのです。
 例えば、海に行ったとしても僕はうまく泳ぐことはできませんし、魚をうまくさばくこともできません。ちょっと運動したら、すぐ休憩したくなってしまいます。男子校で、しかも進学校だったから、普通の学生が体験するような、いわゆる「甘酸っぱい青春」なんていうのとも縁がありませんでした。
 そもそも、そんなドラマみたいな「青春」なんて、現実にはゴロゴロしているものではないだろうけれども。
 農業や漁業をやっている人とか、体を使って仕事をしている人に対して、なんとなく、自分が「虚業」をやっているのではないか、というような気持ちになることがあるのです。
 「そんなつまらない仕事」と若い頃にバカにしていたようなことに、人間の根源みたいなものが含まれているのではないか、って。
 もし「北斗の拳」みたいな世の中になったら、最初に死ぬのは僕だな、とか、原始時代に生まれていたら、即死だろうな、とか。
 「自分が文明社会から切り離されたときに、生きていけるだろうか?」というのは、とても不安になる想像なのです。
 どんなに難しい方程式が解けたり、高尚な文学を読み解くことができても、そういうサバイバル能力には乏しい人生。

 「特殊技能なんて昆虫にでも任せておけばいいんだ」とまで思い切ることはできませんけど、こういうのは、僕だけなんじゃないんだなあ、とあらためて感じました。偉そうに「専門家」として生きていくのも、そんなにラクではないのです。なんだかちょっと三島由紀夫チックですが。

 ライブドアの社長さんは、こんなことで不安になることは、ないんだろうか…