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2004年05月12日(水)
「無言の約束」

「キャッチボール〜ICHIRO meets you」(「キャッチボール〜ICHIRO meets you」製作委員会著・糸井重里監修)

(糸井重里さんが書かれている、この本の前書きより)

【野球部のない学校にいながら野球をやりたかった少年イチローの練習相手を、おとうさんがした。
 ふたりは、休まず練習しようという約束を守って、小学校二年生の終わりの頃から、六年生の終わりの時期まで、ほんとうに四年間、一日も休まずに練習を続けたという。
 どちらかが約束を守ろうとしなかったら、簡単にその約束は守られて締まったのだろうと思う。
 ぼくのような人間でさえ、毎日、誰かに何かを書く仕事を続けていられるのは、読んでくれる人が、毎日グラウンドに来て、相手をしようと待ちかまえてくれているからだ。
 どんなノックでも、どんなボールでも、受けてくれる相手が必ずいるとわかっていたら投げますよ、打ちますよ。だって、それが、ちっともイヤじゃないんだし、無言の約束になっているんだから。】

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 ほんとうに当たり前のことなのですが、あの「天才」と呼ばれるイチローでさえ、たぶん自分ひとりだけの力では、野球の才能を開花させることはできなかったのでしょう。
 イチローと彼の父親との猛練習は、今となっては伝説化しているのですが、「まだ本当に野球の才能があるのかどうかわからない」自分の子供と四年間、一日も休まずに一緒に練習したお父さんは、本当に(いろんな意味で)凄いなあ、と思います。「偉い」というのとは、ちょっと違うような気もするけど。
 「毎日練習すれば、この子はすごい野球選手になる!」という決まった未来があるなら、どんな親にだってできることなのかもしれないけれど、子供の頃のイチローにあったのは、単なる「可能性」でしかなかったのですから。

 糸井さんは、日本でいちばん有名なコピーライターのひとりであり、「ほぼ日刊イトイ新聞」というWEBサイトを主宰されているのですが、糸井さんはこの文章の中で、「自分の投げた球を受けてくれる人」=「無言の読者」に対する感謝を捧げておられます。
 相手がいないとキャッチボールができないように、どんなすばらしい文章でも、「読んでくれる人」がいなければ存在意義というのは薄れてしまいます。
 「自分は書くことが好きだから書いている」というスタンスは、確かにあるとは思うのです。しかし、どんなに野球が好きでもずっと毎日ひとりで練習するのが困難なように、やっぱり「読んでくれる人」の存在というのは、継続する気持ちを支えてくれるものではないでしょうか。
 もちろん「書き手」が「受け手」に対して求めるものというのは人それぞれで、文章の「書き手」であれば「読んでくれればいい」「感想が欲しい」「お金にならなければ無意味」など、求めるレベルも違ってくるようです。
 イチローの活躍は一緒に練習してくれたお父さんのおかげだし、糸井さんの仕事は、多くの読者の応援の賜物なのですよね。いくらお金がもらえても、お金だけのために文章を書いていくのは、ちょっと虚しい。

 人がひとりで何かを続けていくことは、本当に難しい。
 そしてときには、「すばらしいキャッチャー」が、普通のピッチャーを好投手に育ててくれることもあるのです。

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 手前味噌で申し訳ないのですが、「活字中毒R。」は、20万カウントを超えました。もちろん数字がすべてではありませんが、こんな拙い文章をずっと「受け続けて」くださった皆様に、篤く御礼申し上げます。