|
|
2004年05月07日(金) ■ |
|
「生活というのは、そういうものだ」 |
|
鷺沢萠さんの作品集「失恋」のなかのひとつ「安い涙」(新潮文庫)より。
【以前、誰かの書いた文章で「暴走族百人とサラリーマン百人が武器を持たずに殺しあいをしたとしたら、まず間違いなくサラリーマンのほうが勝つであろう。生活というのはそういうものだ」といったような意味のものを読んだことがある。およそ観念的な文章というのは大の苦手である幸代だが、そこのところだけ不思議に納得したのでよく覚えている。 いってみれば幸代が銀座で成功できた理由は彼女自身が天涯孤独であったことである。彼女自身の中に内包された「切羽詰まった何ものか」である。】
〜〜〜〜〜〜〜
普通に考えると、ケンカ慣れ、暴力慣れしている暴走族のほうが、殺し合いをするというような事態になったら、勝つのではないかと思いませんか? まあ、それ以前にサラリーマンはそういう状況を回避するために「逃げる」という選択肢を選ぶ人も多いだろういう気もするのですが。 でも、この文章を読んだとき、僕も「きっと、闘うしかないという状況になれば、サラリーマンが勝つだろう」そう感じました。 最近僕の周りは出産ラッシュなのですが、最近女の子が生まれたばかりのひとりの先生が先日転勤になって、ハードな病棟勤務に戻っていったのです。「もう3キロも痩せた…」と、すっかり顎のラインが細くなってしまった彼に「そういえば、娘さんは?」と尋ねると、彼は嬉しそうに一枚の写真を見せてくれました。そこには、まだ生まれたばかりの赤ん坊と、人間というのはこんなに顔中の筋肉を弛緩できるのか…とつい考えてしまうような彼の満面の笑顔があったのです。 「まあ、キツイけどがんばるよ。娘の顔を見るのを愉しみに」 そう言って、彼はまた仕事に戻っていきました。 僕はなんだか、置いてけぼりにされたような気になったものです。
「生きる」というのは、人間にとって根源的な欲求なわけですが「誰かのために生きる」とか「家族のために死ぬわけにはいかない」というのは、ただ「生きるという本能」よりも一層強固な感情なのかもしれません。 暴走族は「社会や自分に不満があって、生活に困ってもいないのに暴れている人間」だとしたら、多くのサラリーマンというのは「社会や自分に不満があっても、自分が生きるため、守るべきもののために、それを抑え込んでいる人間」なのですから、どちらが強い人間かなんて、言うまでもないことです。 不満を表面に出す人間だけが不満を持っているわけではない、そんなことは、当たり前のことなのに、世間では「普通に生きている人たち」よりも「更生した暴走族」のほうが感動的だと思われているというのは、本当に大きな矛盾なのですが。
でも、そういう「普通の生き方」って、実はものすごく疲れることもあるんですよね。「どうしてあんな平凡な人が…」と何かが起こったときに周りは言うけれど、平凡に生きるためには、いろんなものを抑えていかなければならないわけですから。いつか爆発するかもしれない恐怖をみんな抱えているのではないかなあ。だからこそ「強い」のです。
「生活というのは、そういうものだ」 「そういうもの」に支えられて、みんな、なんとか生きている。
|
|