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2004年04月28日(水)
”無人島に持ってゆく1枚”を語ること

KAWADE夢ムック「トリビュート特集・ナンシー関」(河出書房新社)より。

(能地祐子さんの「ナンシー関さんと音楽」についてのテーマ・エッセイの一部です)

【歌謡に限らず、何らかの音楽を溺愛している人間はたいてい、その音楽を定義する持論を掲げていたり、ヒーローと仰ぐフェバリット・シンガーがいたりするものだ。ナンシーの場合はどうだろう?とつねづね思っていたわたしは、2000年、各界著名人に”無人島に持ってゆく1枚”を挙げてもらうオムニバス・コラム集『無人島レコード』(能地祐子+本秀康・編、ミュージック・マガジン)で彼女に原稿を依頼した。果たして、ナンシー関が選んだ1枚は、あろうことか清水健太郎のファースト・アルバム。なるほど!さすがナンシー!我々ナンシー・ファンが歓喜するツボを逃さぬセレクトである。が、そのコラムを彼女は「なんでこれにしたのか、もうすでに自分でもわからないが。」と結んでいる。やっぱり教えてもらえないのね。ナンシー関の”歌謡魂”を解く、ブラックボックスの中身は。彼女は同コラム内で、無人島へ持ってゆく1枚を選んで論じることは「どんな1枚を選んでも、それによって何らかの人格を読まれるわけだ。というより『私はこういうレコードを選ぶ人間であると思われたい』という自己演出なわけである。」とも書いている。もちろん、例のニヒルかつユーモラスな語り口で。】

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 実はこのナンシーさんが”無人島へ持ってゆく1枚”について書いていた話は、他の人のエッセイにも取り上げられていました。きっと、読んだ人たちはみんな、今までなんとなく自分の中で消化しきれなかった「みんなに向かって、1枚を選んでみせること」への難しさとか気恥ずかしさをうまく言葉にしてくれた、と感じたに違いありません。
 僕も「そう、そうなんだよ!」と思わず頷いてしまいました。

 僕たちは初対面の人に対して「どんな音楽を聴かれるんですか?」とか「どんな本を読むのですか?」というのを尋ねることがあります。
 それはもちろん、「自分と共通する話の糸口」がないかどうかを探る、とか「相手の好みを知る」という目的があるのですが、僕の場合、自分がそれを尋ねられた場合「なんとなく答えにくいなあ」と感じることが多かったのです。だから、人に尋ねられると「まあ、いろいろと…」みたいな答えかたになることも多くって。

 「他人に対して自分の好きなものを語る」というのは、多くの場合「自分を語る」という意味を持っているのです。「自分はこういうものが好きだ」というのを語るということは、それと同時に「自分はそういうものが好きな人間だ」というのを語ることでもありますし。
 もちろんそれは、語る側にとって、意識的な場合もあるでしょうし、無意識な場合もあるでしょう。受け手の好みや都合なんてのもありますしね。好きな食べ物を尋ねられて「お寿司」と答えた女の子を「和食が好きなんだな」と解釈する人もいれば「贅沢な人」と解釈する人もいるように。

 とくにこういう”無人島に持ってゆく1枚”というようなものは僕にとっては決めることが難しいのです。たくさん挙げて良いのなら「いろいろな角度からの自分という人間」を提示することもできますが、”1枚”となると、あんまりありきたりのものを選んで「ありきたりの人間」と思われるのもイヤだけど、奇を衒いすぎて「そんなもの、どこがいいの?」と冷笑されるのも辛い。そんなふうに考えて「通が選ぶ1枚」の典型例みたいなものを「無難に」選んでしまったりもするのです。そういう「よそゆきの1枚」って、本当に選びにくい。
 いつも家で聴いているのがB'zとかサザンとかの人でも、”無人島に持ってゆく1枚”には、そういう作品は、「メジャーである」というだけで、なんとなく選びにくいのではないかなあ。僕のような自意識過剰な人間にとっては、そういう”1枚”って、確かに「自分の好み」というより「他人にこう見られたい自分」を反映している気がします。
 音楽って「自分が良いと思っている」という理由以外にも「自分はこういう音楽を聴いている」ってアピールするために聴かれていることも、けっこう多いのではないかな。
 「自分の中のナンバーワンの小説」が、本棚に並べられているだけで満足で、いつも実際に読んでいるのは東海林さだおさんのエッセイだったりするように、「他人に見せたい自分」というのは「本当の自分」とは乖離しているものなんですよね、きっと。

 たぶん、こうやって書いている文章に出てくる「僕」も、「無人島に持ってゆきたい自分」なのだと、ときどき思います。