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2004年04月27日(火) ■ |
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「これもイラクをめぐる悲劇」 |
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Asahi.comの記事より。
【ブルガリアの首都の北120キロにある小さな村で、同国軍のイラク派遣について口論となった男性2人がナイフで刺し合う事件があった。同国はイラク中部カルバラに兵士約470人を派遣しており、23日には民兵の襲撃を受けて兵士1人が死亡。同国軍の死者は計6人になっていた。
地元メディアの報道によれば、事件があったのは24日。警察によると、男性2人は友人でブドウ畑で仕事をした後、酒を飲みながら「ブルガリア軍はカルバラから撤退すべきか」について議論を始めた。70歳の男性は「撤退すべきだ」、48歳の男性は「とどまるべきだ」と主張して口論となり、互いにナイフを出して刺し合い、重傷を負ったという。
病院へ駆けつけた48歳の男性の父親(72)が「息子に何をした」と怒り、医者の目の前で70歳の男性ののどを刺して殺害。殺人の疑いで逮捕されたという。地元メディアは「これもイラクをめぐる悲劇」と報じた。】
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「これもイラクをめぐる悲劇」なのかどうか? この記事を書いた記者も疑問に思えばこそ「現地ではこのように報じた」と書くにとどめた、ということなのでしょう。 この事件に関して「ブルガリアがイラクに派兵しなければ、こんなことにはならなかったのに」と言われても、さすがにちょっと違和感があるのです。 この2人の男性は友人だったそうなのですが、彼らがこんな「殺し合い」に至った理由というのは「祖国のイラク派兵に対する意見の相違」であったようです。でも、別にその問題について異なる意見を持っていたのは彼らだけではないでしょうし、ブルガリアの国内でもいろいろな場所で議論はされていたのでしょうけど、だからといって「刃物で刺してもいい」ということはないはず。もしそれが「イラク派兵がもたらした必然的な悲劇」であるならば、日本国内は「バトル・ロワイヤル」の世界になってしまいますから。 極論すれば「贔屓の野球チームの相違」によって刃傷沙汰になったりすることだって、盛り場ではそんなに珍しいことではないような気もしますが、そういう人々に対する世間の見方というのは、「プロ野球なんてものがあるせいで、こんな悲劇が起こるんだ…」ではなくて「野球のことでそんなふうに我を忘れて暴力ふるったりするなよ…」というのが大部分であると思うのです。人それぞれ「意見の相違」があることは仕方ないにしても、それを理由にして人を傷つけてもいい、というわけではありません。議論をするのは悪いことではないけれど、こういう方法で相手を「負かそう」とすることには、全然意味がないのに。 そもそも「こういう血の気の多いひとたち+酒のイキオイ」というやつは、別に理由がなんであれ(イラク政策とは関係なくても)、今回のような「悲劇」を起こしてしまう可能性があるのではないかなあ。 今回の件については、「470人中6人」という、「治安維持部隊」としては高率の死者を出してしまったブルガリアの人たちの苦悩と嘆きが背景にあったとしても。
この記事に対しては「それで殺しあっては、本末転倒だろ…」と感じる一方で、この人たちを笑えないところもあるのです。世の中には「自分と違う意見の人を片っ端から『説得』していけば自分の意見が認められるはず」と考えている人が、けっこう多いみたいだし。 冷静に考えれば、目の前のひとりを力づくで自分の意見に従わせようとしたところで、本当に自分が変えたいはずの「世界」は、何一つ変わらないなんてことは自明の理なのに。 「まずは目の前のひとりから」というのは正論なのかもしれませんが、それは、今の時代では、あまりに非効率的です。 僕は近頃、「本当に世界を良くしたい人」なんてほとんどいなくって、「他人を打ちのめして自分の正しさを認めさせたい人」ばかりなのではないか?などと感じています。みんな、わりに合わないから刃物とか持ち出さないだけのことで。 自分が嫌いな誰かを叩いても、そこからは何も生まれないなんてことは、ちょっと考えてみればわかりそうなものなのにね。 結局、僕たちが指差して笑っているのは、「鏡の中の自分」なのかもしれませんよ。
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