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2004年04月17日(土)
「魚の向き」と「作法の理由」

「中島らもの特選明るい悩み相談室・その2〜ニッポンの常識篇」(中島らも著・集英社)より。

(「夫が料理された魚の向きにこだわるので辛い」という女性の悩みに対する答えの一部です。)

【魚の盛りつけの作法では、たしかに頭を左に、尾を右に、腹を手前に、背を向こうに置いて出すのが決まりです(ただし、カレイの場合は頭が右です)。これは縁起がどうこういうことではなくて、おいしい部分を強調して出すからです。江戸時代に魚河岸が設けられたときに、魚を箱詰めにする際、頭を左にして入れることが定められました。そうしますと、上側の身はいいのですが「板つき」と呼ばれる下側の身は魚の重みで身割れがし、水けもたまりやすいので味が落ちます。ですから人にすすめるときには、おいしい上身の部分が上にくるように、頭を左にするわけです。川魚は背の部分がおいしいといわれていますから、この場合は頭が左でも背が手前になるようにして出します。
 切り身のときには、食べやすいように、皮のついている方を向こう側にし、背の方の身を左に、腹側の身を右にして出すのが作法です。ただし、皮の模様がきれいな切り身の魚なら、皮を上にしてもかまいません。】

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 そういわれてみれば、料理に魚が出てくるときって、ほとんど「頭が左」のような気がします。自分で魚料理をする側になったことががなくて、食べる側専門の僕は、とくに意識したことはなかったのですが。
 そういうのが「作法」だというのは知っていたんですけど、なるほど、こういう意味があったのか、とこの文章を読んであらためて知りました。
 昔の人が「頭が左」という「決め事」をつくった理由というのは「そう決まっているから」というようなものではなくて、それが理に適っていて、より美味しく食べやすくするため、なのですね。

 「作法」というのがキライなのは、なにも僕だけではないと思うのです。この世の理不尽の多くが「それが作法だから」「そういう決まり事だから」というような「意味のない伝統」に由来しているのではないか、と考えたことって、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。
 「魚なんて、どっち向きに置いたって変わらないのに、煩わしい人だなあ」なんて。
 もちろん、料理されてしまった時点では、どっち向きに置こうが魚の味は変わらないでしょうし、あまり礼儀作法にばかりこだわっていると、美味しく食べるという点からは本末転倒になってしまうのでしょうが、そういう「もてなしの心」みたいなものは、すごく貴重な気がするんですよね。
 「魚の向き」ひとつにしても、いろんな「想い」が込められていて、「作法」というのは、もともとそれを目に見えるようにするための手段だったということなのでしょう。

 「礼儀作法」について考える、もしくは他人に教える機会があれば、頭ごなしに「そういう決まりだから」と言うのではなく「なぜそういう作法ができたのか」を同時に伝えていくことが必要だと、この話を読んで考えさせられました。
 「それが作法だから」というのはなんとなく反発を覚えるのですが、こういうふうに「作法の理由」を知ると、伝統というのはバカにできないものだな、なんて感動してしまいます。