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2004年04月18日(日) ■ |
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“死にたくない”という夢 |
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「週刊アスキー」2004・4月13日号の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。
(脳の研究で有名な東北大学教授・医学博士の川島隆太さんとの対談の一部です。)
【川島:これはね、言うとみんな笑うんですけど、僕の中学校のときの夢で。それは“死にたくない”という夢だったんですけどね。 進藤:おっ、それはおもしろいですねぇ! 川島:ハハハ。なんでそんなことを考えたのかは覚えていないんですけどね。たぶん、自分の死、人の死をすごく真剣に考えたんでしょうね。死イコール、自分の存在がこの世からなくなるということに、ものすごい苦痛を感じていて。それでいろいろ本を読んだりしてみると、自分というのは、どうも頭の中にいるんじゃないか。だったら自分の脳を研究しようと思ったんですね。それで、たぶん“記憶”というものが重要だと。自分の過去がわかっているということが、自分を形成しているように思えたので。それで、コンピューターの中に自分を入れればいいんじゃないかと思ったんです(笑)。 進藤:ふぅ〜む。 川島:そうなれば電気がなくならない限りは、人が死に絶えるまで、自分は機械の中で人間の歴史を見ていられるんじゃないかって。そんなことを考えて。 進藤:その、死にたくないという理由は、世の中の成り行きを全て見通したいということですか。 川島:それもありますね。いま考えると、すごく哲学的な理由なんだなと自分でも思うんですけど。人はどこから来て、どこへ行くのかっていうことを知らずして、自分が歯車のひとつで終わるのがイヤだって思っていたんです。 進藤:中学生の男の子が。 川島:2年生くらいでしたね。ヘンなこどもだったんです(笑)。】
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川島先生は1959年生まれだそうですから、ちょうど僕とひとまわり違う40代半ばなのです。この記事を読んだとき、僕は思わずハッとしてしまったのですが、その理由は「自分と同じことを考えていた人がいるんだなあ」ということでした。僕の場合は、そうやって「永遠の命」を手に入れるということが漠然とした望みだったのに対して、川島先生はそれを実現するために行動されているのですから。まあ、現在の時点で、川島先生が「機械の中の観察者」という立場での「永遠の命」を本当に求めておられるかはわからないんですけどね。 それにしても、まだコンピューターなんでものが海のものとも山のものともわからないような時代に、そういう発想をされたことには、先見の明があったといえるでしょう。
僕は子供の頃「死ぬ」というのがものすごく怖くて、それはどうしてなのだろう、とずっと考えていました。そして得たひとつの結論が「自分の知らないところで世界が動いてしまうことの恐怖」だったのです。川島先生も言われているように、ひとりの人間というのは、人類全体からすれば「歯車のひとつ」ですし、そういう歯車の古いものと新しいものが入れ替わりながら、「人類」という機械は動き続けています。それはもう、種としての必然、とでも言うべきことで。 でも、ひとりの人間としては「自分がいなくなっても、世界が動き続けている」というのは、なんだかとても口惜しいところもあるのです。明日のプロ野球の結果を知ることができないとか、「ドラゴンクエスト8」を遊ぶことができないとか、そういう些細なことが、きっと口惜しいと感じると思うのです。誰でも生きているかぎり、「世界の中心は自分」なのに、その主役を差し置いて歴史が進んでいくなんて!
おそらく「霊魂」というのも、「自分がいなくなっても、世界が動いていくことの恐怖」から生まれてきた発想ではないでしょうか? 実際に「何もできない、意識だけの存在」が、はたして人間にとって幸せな状況なのかどうか、「自分の存在が無くなってしまうよりマシ」なのかどうか、今の僕には、正直よくわからないのですけど。 そうやって「生きていく」というのも、もどかしいことばかりなんじゃないかなあ、なんて思いもしますし。
もし機械の中で生きていくことができたとしても、それはそれで「電源が切られる恐怖」の追われることになるのかもしれませんが…
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