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2004年04月14日(水) ■ |
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「小説の面白さ」を言葉で説明する難しさ |
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「書きあぐねている人のための小説入門」(保坂和志著・草思社)より。
【本当の小説とは、その小説でしか得られない何かを持っている。小説だけでなく、優れた音楽や美術など、芸術とはすべてこういうもので、それらに接したときの「感じ」は、私たちがふつうに使っている言葉では説明できない。 先日も私はある現代彫刻展に出かけたのだけれど、最初に見たときの率直な感想は「まったくわからない」だった。けれども、見終わったあとの帰り道で、大げさにいえば世界の見え方が変わっていた。 「まったくわからない」芸術に出くわすと、人はその制作者に向かって、よく「その意図を説明せよ」と言うけれど、それはとても無意味なことだ。日常の言葉で説明できてしまえるような芸術(小説)は、もはや芸術(小説)ではない。日常の言葉で説明できないからこそ、芸術(小説)はその形をとっているのだ。日常と芸術の関係を端的に言えば、日常が芸術(小説)を説明するのではなく、芸術(小説)が日常を照らす。】
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この文章を読んで、僕はなんだかすごく納得してしまったのです。 「面白い本を読んだ」なんて誰かに話すと、多くの場合「それって、どんな話?」って聞き返されるはずです。それで、あらすじを「こういう話」と説明すると、「ふうん」と面白くなさそうな顔をされて悔しい思いをしたことってないですか? いや、説明している途中で、自分でも「なんだか面白くない説明だなあ」なんて気がついてしまう場合も多いのですが。
それって、僕の「語り部としての才能」なのだとずっと感じていたのだけど、この考えでいくと、「小説の面白さというのは、それを読んだ本人にしかわからない性質のものだ」ということですよね。 今流行の「あらすじ本」を読んで「そんな話だったのか」という発見があるとしても、どれもみんな似たような話に思えて、「小説」として面白くないのは、あらすじにしてしまった時点で、すでにその作品は異質であるということなのでしょう。 小説というのは、あらすじでは略されてしまうような枝葉末節の部分に、本当の魅力があるのかもしれません。
「人気小説の映画化」というのが概して原作ファンに評判が悪いのも、やはり「小説」と「映画」とは根本的に違うもので、最大公約数的なイメージを映像として目に見える形にすることはできても、「小説としての面白さ」というのを映像化するのが不可能だからなのでしょう。 あの「ロード・オブ・ザ・リング」の映画化にしても、原作ファンの声には、「イメージ通りだ!」という絶賛よりも「よくあそこまで頑張った!」とか「原作への愛を感じる」とかいうような賞賛の声が大きいようですし。
「言葉にすれば、嘘になる」というのは、ひとつの宿命なのでしょう。言葉というのは、人間にとってひとつの便利な道具でしかないし、同じ「青い空」という言葉でも、思い浮かべる空は、人それぞれ違うはずですから。 それでもやっぱり、「言葉では伝わらないはずの何か」をなんとか言葉で伝えてみたいと思って、みんな話したり書いたりしているのですよね。
それにしても「面白さを他人にうまく説明する」というのは、とても難しいことです。本当は、その説明の内容より、教えてくれた人が誰か、とか、説明してくれる人の熱意などに、興味を引かれるものなのではないかなあ。
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