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2004年04月15日(木)
日常生活というレベルでは、どちらもたいした違いはないのだ。

「ノルウェイの森」(村上春樹著・講談社)より。

【いずれにせよ1968年の春から1970年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのかと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。】

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 昨日から、村上春樹さんの「ノルウェイの森」を再読しているのですが、読むたびに(というか、僕が年をとるにつれて)読んでいて感じることは変わってくるものだなあ、なんて感慨深い気持ちです。以前と同じことを思うところもあれば、「あの頃は、ここを読んであんなふうに感じてたよなあ」なんて、初めてこの作品を読んだ高校生の頃を思い出してみたり。
 まあ、再読のきっかけは、片山恭一さんの「世界の中心で、愛をさけぶ」が200万部を突破したという報道のなかで、「世界の中心で…」の前に純文学で200万部を突破したのは、17年前の「ノルウェイの森」にさかのぼる、という話を聞いて、なんとなく読みたくなった、ということですから、あまりたいした理由でもないんですけど。

 ここに引用した一節は、高校生の僕にとっては「どうでもいい部分」だったと思います。記憶になかったし。主人公が大学入学直後から住んでいた「とある政治団体が母体となって経営しているという噂の寮」についての描写の一部です。

 イラクでの日本人人質事件について、「自己責任論」「陰謀論」から「自衛隊撤退論」「人命至上論」など、さまざまな言説が、メディアやWEB上で繰り広げられています。中には、自分の「正義」に酔ってしまって、被害者の御家族に執拗なイヤガラセを行う人まで出る体たらく。どうせなら、テロリストにイヤガラセをやればいいと思うのですが。「税金で助けてるんだ」とか言うけど、僕だって人質になったら、税金でも何でも使って助けてもらいたいしね。本来税金というのは、そういう「不測の事態」に使われるべきものだろうし。そんなの生命保険をもらった人に「あなたが貰ったお金の一部を払ったのはオレだ!」とかクレームをつけるようなものですよ。まあ、今回はコストがかかりすぎではありますが。

 しかし、そんなふうに人質問題について激論が闘わされているにもかかわらず、僕たちの日常はまったく静かなものです。それこそ、あっけないくらいに。考えてみると、こんな世界情勢では、日本でこうやって日常生活を送っている僕ですら、テロやなんらかのトラブルに巻き込まれる可能性が劇的に増していると思うのですが、やっぱりそれを自覚するのは難しいし、「それよりも来週のプレゼンテーションのほうが大事」だったりするわけです。

 たぶん、僕がこうやって日常接している人の中にだって「自己責任という名目で、家族を犯罪者呼ばわりする人」もいれば「自衛隊即時撤退を唱える市民運動家」だっていると思うのです。でも、ここに書かれているように、そういう「主義・主張」なんてものは、僕たちの現在の日常にとっては「どうでもいいこと」なんですよね。
 「プロ市民」でも「人質家族にイヤガラセをする人」でも、コンビニに行ってお金を払えば買い物を拒否されることはないし、病院に行けば普通に治療してもらえます。どんなに自分の主義を主張しようが、よほど過激なものでないかぎり、反対派に命を狙われたり、日常のコミュニティから除外されたりするようなこともないのです。もちろん、多少ご近所に敬遠されたりはするでしょうけど。
 そういう意味では、「イラク人がイラクで自分の主張をすること」と「日本で日本人が自分の主張をすること」というのには、ものすごく温度差があるんですよね。どちらかにつけば、もう一方から命を狙われるような状況で旗幟を鮮明にするのと、今の日本のように「多少のことでは、何を言っても日常生活に支障がない」状況で自分の意見を主張をするのとでは、全然その「重さ」が違うのです。
 もちろん、それは悪いことではなくて、今の日本の素晴らしい面だと思うんですが。ほんとに「自由」だよ日本は。

 「どっちについてもたいして違わない日常を送れる」というのは、幸せなんだよ、きっと。何も犠牲にしないで好きなことが言える時代、言える社会というのは、人類にとってむしろ稀なのだから。
 所詮、多くの日本人にとっては、自分が傷つくことはない、画面の向こうで展開される「ゲーム」なんですよね、これは。
 僕には、今回の人質事件って、これから起こるさまざまなことの単なるプロローグだとしか思えないのだけど。