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2004年03月28日(日) ■ |
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「知る」ということは、自分が変わるということ。 |
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「バカの壁」(養老孟司著・新潮新書)より。
【自分で1年考えて出てきた結論は、「知るということは根本的にはガンの告知だ」ということでした。学生には、「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている花が違って見えるだろう」と話してみます。 この話は非常にわかり易いようで、学生にも通じる。そのぐらいのイマジネーションは彼らだって持っている。 その桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。多分、思い出せない。では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうことなのです。 知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。】
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「知る」ということが、はたして人間を幸せにするのかどうか?「バカの壁」のこの部分を読んで、僕はそんなことを考えてしまいました。 まあ、「ガンになる」という体験は、一生のうちに何度も経験することではありませんし、僕も実体験はないのですが(ないならないに越したことはないですよね)、例えば、学生時代に気になっていた女の子が「○○先輩と付き合っている」という話を聞いたあと、その女の子が違ってみえるような感じなのかな、と想像しました。
養老さんは、この本の中で「現代人は、それぞれの人間の『個性』というものは不変のもので、まわりの環境が変わっていくものだと思っているようだが、実際には周りのものはほぼ不変で、それを受け取る人間の「感じ方」が変わっていくのだ、と語られています。 もちろん、時代によって変化するものというのはたくさんあるのでしょうが、確かに「自分は不変である」というのは、単なる思い込みなのかもしれないなあ、と思うのです。 子供の頃の自分と今の自分は、さまざまなことに関する考え方が変わってきていますしね。ドリフのコントを観て「バカだなあ、面白いなあ」と思っていた僕が、今同じものを観て感じることは「上手いなあ、この間の取り方が素晴らしい」とか「懐かしいなあ」だったりするわけですし。観ているのは、多少の映像や音の劣化があるとしても、同じ映像のはずなのに。
医師という仕事をやっていると、「知ることの面白さ」と同時に「知ることの怖さ」を感じることも多いのです。「知ること」によって、何か対応ができる場合はともかく、まだ若い患者さんの治療不可能なガンを発見して、思い悩むこともありますし。「病気のことがわかっていいねえ」なんて言われても、むしろ「ああ、病気って怖いねえ」と素直に忌避して、「今の自分には関係ないこと」にできないというのは、気が重くなることだってあります。 万能の天才と言われたミケランジェロは、晩年まで「自分には、まだ知りたいこと、できることがたくさんあるのに、とにかくそれをやる時間が無いんだ…」と思い悩んでいたと言います。「知っている」「できる」から幸せ、というわけでは、きっとないのでしょう。「知っている」からこそ、満足できないこともある。 松井秀喜選手は僕よりはるかに野球が上手ですが、現実には松井選手なりの「野球に対する悩み」があって、それは、投げればフォアボール、打てば三振の僕の悩みよりも、はるかに深いものかもしれないのです。
「知る」というのは、本当は、自分を不幸な方角に向けることなのかもしれない。他の国の生活を知らなければ、北朝鮮の人々だって、そんなに「不幸」ではないのでしょうし。
それでも、「知っている」という優越感は、何事にも換え難いところがあるんですよね。それで人は、常に自分を「更新」しようとし続けてしまう。 「人間」というOSは、アップデートしすぎて、かえって不安定でセキュリティホールだらけなのかも。
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