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2004年02月24日(火) ■ |
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やるせない「薬害エイズ裁判」 |
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読売新聞の記事より。
【薬害エイズ事件で業務上過失致死罪に問われた元帝京大副学長・安部英(たけし)被告(87)(1審・無罪)について、東京高裁が公判停止を決定したことを受け、薬害エイズ被害者の大学講師・川田龍平さん(28)が23日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、「医師と製薬会社の癒着などが解明されないまま終わり、怒りの矛先をどこに向けていいか分からない」と戸惑いの表情を見せた。
控訴審を傍聴していた川田さんは、「無罪を出した1審とは違う方向で審理している」と感じていたという。それだけに、「公判停止にはがっかりした。控訴審で1度も安部被告の姿を見ていないのに、心神喪失と言われても納得できないないし、悔しい」と、ぶぜんとした様子で話した。
同高裁では、1審・有罪判決の元厚生省生物製剤課長・松村明仁被告(62)の控訴審も続いている。会見に同席した東京HIV訴訟弁護団の大井暁弁護士は、「薬害エイズは、『産・官・医』の過失が複雑に絡み合った構造薬害。検察は今後、旧厚生省の責任追及に全力を傾けてほしい」と訴えた。】
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このニュースを聞いて、僕も「やり場のない気持ち」になりました。 川田さんの憤りはよくわかります。彼の仲間たちは、罪無くしてHIVに感染してしまい、命を落とされた方もいれば、現在も発症の恐怖と戦っておられる方もいらっしゃるのですから。 でも、その一方で、「判断能力を無くしてしまった寝たきりの老人」になってしまった安倍被告を被告席に座らせて裁く、というのも、忍びない気もするのです。 僕は仕事柄そういう高齢の方にたくさん接してきましたが(家族の方にとっては、「生きている」というのはそれだけで大事なことなんだけど)、万が一法廷に寝たきりの安倍被告が出廷して、「責任能力」を問われるようなことにでもなれば、それは「裁判」というより「さらしもの」でしかないでしょうし…
「老い」や「死」がすべてを洗い流してしまう、というのは、人類(とくに東洋)共通の観念でもあります。中国の故事「死者に鞭打つ」というのが、「目的のためには手段を選ばないこと」、転じて、「残酷なこと」の意味で使われることが多いのは、そのひとつの現れなのではないでしょうか。これは、無実の罪で王に処刑された父親と兄の敵討ちをするために他国の将軍となった伍子胥という人が、ついに仇の王の国の都を攻略したものの、王はすでに亡くなっていたため、その墓をあばいて屍を鞭打った、という故事に基づいています。 僕は子供の頃この話を読んだときには、「そりゃ、せめて死体にでも復讐するしか仕方ないよなあ」なんて思ったものですが。 でも、これが「残酷なことの代名詞」であるということは、僕たちの社会常識として、「やってはいけないこと」だということなのでしょう。 この言葉自体「そんな『死者に鞭打つような』ことをするんじゃない!」という「禁止」や「否定」の意味で使われることがほとんど100%ですし。
その一方で、川田さんたち原告側の「寝たきりでもいいから裁いてやりたい」という気持ちもよくわかるのです。それはそうだろうな、と。「もう何もできなくなってしまった人間なんだから、そんな無茶言わなくても…」というのは、傍観者としての寛容でしょうから。
世の中には、こういう「どうしようもなくいたたまれないこと」というのが、厳然としてあるのだなあ、とただ溜息が出るばかり。
ただ、僕はいつも思うのですが、いろいろ証拠調べとかもあるにしても、どうして裁判というのは、みんなこんなに時間がかかるのでしょうか? オウム真理教の教祖だった人などは、弟子たちが次々に極刑判決を受けているのに「犯した罪があまりに多すぎるため」裁判が長引いて、結局長生きしているような感じさえするのです。 これなら、裁くのに膨大な時間がかかるほど悪いことをすれば、何十年も裁判が続いて、死刑にならないですむんじゃないかなあ…
僕個人の見解としては、安倍被告は医者として、人間として「有罪」だったと考えます。もちろん、彼に対して浴びせられた世間の非難は、本人にとっては「死より辛いもの」だったのかもしれませんが、僕はやっぱり、「生きている」ということは、それだけで何にも替えがたいことだと思うし。
もちろん、裁判が停止されたからと言って、彼の罪が消えるわけでもないし、これからも医者や官僚や政治家や薬剤メーカーの良心は問われ続けるでしょう。でも、これはあまりにもいたたまれない結末なのではないでしょうか。
たぶん、「裁判官だって、弁護士だって忙しい」っていう話になるんでしょうけどねえ… いっそのこと「民営化」したらもっと早くなるんじゃない?
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