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2004年02月04日(水) ■ |
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「トリビアの泉」の不純な動機 |
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「トンデモ一行知識の世界」(唐沢俊一著・筑摩書房)より。
【「一行知識は、それが実生活に無用のものであればあるほど純粋におもしろい」 よく、新聞社系の出版社や、ビジネス書系の出版社から出る雑学本がある。これらは、おしなべておもしろくない。いろいろ書き方に工夫があるものであってもである。その理由を考えているうち、こういうところから出る本は、その得た知識を、 「何か実用に役立てようという、不純な動機がある」 ことにあるのではないか、と気がついた。たとえば外回りの会社訪問での話題のきっかけ作りであるとか、入社試験の常識テストの参考書にする、とかいう理由で、生活のタシにしようと思って仕入れたとたん、雑学が実学となり、一行知識の持つ、無用な知識としての純粋性は失われるのである。 雑学は、頭脳の細胞がその知識を増やしたいと欲する、その純粋な欲求のためにのみ、存在しなければならないのである。 SF作家で化学者、そして雑学マニアでもあったアイザック・アシモフ博士は、自身ものした一行知識の本の中でこう言っている。 「人間は、無用な知識の数が増えることで快感を感じることができる、唯一の動物である」】
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あの「トリビアの泉」のスーパーバイザーとしても最近つとに有名な、唐沢俊一さんが書かれたものです。 最後のアシモフの言葉は、「トリビアの泉」の番組中でも引用されていますし。 僕も「豆知識もの」が大好きで、本屋で手にすることが多いのですが、正直、なんか面白くないなあ、というふうに感じることが多いと思っていたのです。いろんな知識が詰め込まれていて面白いはずなのに… でも、この唐沢さんが書かれていたものを読んで、その「面白くない」理由がわかったような気がします。 やっぱり「何か実用に役立てようという、不純な動機」があるんですよね。せっかく時間とお金をかけて読むのだから、と。 実際は、そういう「実生活に役に立つように、効率的に書かれたビジネス指南書」よりも、単に事実に沿ったドキュメンタリーや歴史書、フィクションのはずの小説のほうが、ある意味「生き方の参考書」になっていたりするのです。
学問というのは、その内容が観念的になればなるほど、本人が「役に立つ」と思ってやっている人より、「面白い」と思ってやっている人のほうがいい仕事ができることが多いようです。 「あのくらい研究に打ち込め!」なんて言われても、それを楽しいと思っている人には、やっぱりかなわない面もあるんだよなあ。 やっている本人には「仕事」とか、そういう意識すらないんでしょうけど。
ところで、「トリビアの泉」そのものも、最近は一般ウケしなければならないため、内容的には少し変容してきているような印象があるのです。 映像的に面白いものや純粋な知識というより統計モノみたいなのが増えてきているし。 それはおそらく、人気番組の宿命というやつで、唐沢さんの本来望む方向性とは違っているのかもしれませんね。 「明日使えるムダ知識」なんていうのは、「ネタになる」という「不純な動機」が含まれているわけですから、よく考えてみると矛盾しているわけで。
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