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2004年01月31日(土)
「日本人である」という共同幻想

「ゲーム批評・2004年1月号」の記事「偉大なる『正史』あってこそのガンダムゲーム」より。

【文明史を語る上で、18世紀以後の最大の謎と言われていることがある。なぜ、誰もが「自分は何々人である」と考えるようになったのかということだ。過去のその何々人として、固有の歴史が存在すると考えるようになり。さらには、何々人として国家のために死ぬ、もしくは大量虐殺ができるようになったのかということだ。
 ある意味で国家や何々人であるというのはフィクションである。しかし、誰もがそれを存在すると信じるようになることによって、実際に存在するようになる。
 われわれは自分が日本人であり、他の人とそれを共有して信じられることで、日本人になることができる。】

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 引越しが多かった僕にとって、甲子園の高校野球というのは、不思議な違和感があるイベントでした。○○県代表と××県代表の対戦に、大人たちが「地元意識」を丸出しにして、一生懸命応援していたからです。
 ここ!という地元を持たなかった僕には、なんだか理解不能な光景でした。自分の身内でもあるまいし、って。
 その人たちが、オリンピックになると、宿敵同士だった他県の人と肩を組んで、今度は「日本代表」を応援するのです。
 なんだかそういうのって、矛盾しているような気がして仕方ありませんでした。

 最近「日本人とは何か?」というアイデンティティが各地で語られています。それは、不穏な世界情勢の中で、「日本という国は、どこへ向かえばいいのか?」という問いかけであるようで、実は「自分はどうすればいいのだろう?」という個人的な不安感そのものなのかもしれません。
 とりあえず、「日本人」というグループに入ってさえいれば、なんとなく安心な気もしますし。

 司馬遼太郎さんの記述によると、実際に「日本人」という概念が完成したのは明治維新以後で(それを言い始めたのは坂本竜馬だ、という説もあるそうです)、それまでは「薩摩藩」とか「長州藩」とかいうような、「藩」というのが日本という国に住む人々の共同体でした。戦国時代などは、隣の藩同士で、ずっと戦争していたり、というようなこともありましたし、「日本」という概念は、そんなに新しいものではないのです。

 アメリカという国に行くと、「アメリカ人」というのは本当にいるのだろうか?という気がしてきます。肌の色、体格、言葉、傍からみると、全く異質の人々が、みんな「アメリカ人」なのです。
 アメリカは歴史が新しい国で、今でも北部と南部は違う、なんていう人もいるみたいですが、その一方で、彼らは「自分たちはアメリカ人である」という強烈な意識に支えられています。
 むしろ、「自分たちはアメリカ人である」という共通した意識こそが、アメリカという国そのものなのではないか、と思えてくるほどです。
 逆に、その「アメリカ人」という形のない共同幻想こそが、なんとかアメリカという国を存立させているのかもしれません。

 日本人は、なんのかんの言っても長い歴史の中で、お互いに外見も言葉も近い存在なわけで、そういう意味では「日本人である」という共同幻想を必要としないのかな、などと、僕は考えてもみるのです。
 しかし、歴史の流れは、「日本人であることを再認識せよ」と僕たちに迫ってきます。
 そして、「日本人としての誇り」の行き着く先は「他者との競争」や「排斥」の可能性もあるはずで。

 アメリカ軍の兵士の中には、軍務に服するとグリーンカード(永住許可証)が取りやすくなるから、という目的を持った人もいるわけですから、日本人に対してだけ、一概に「アメリカの若者は血を流している!」なんて「愛国心」なんてものを煽り立てるのは良いとも思えないんですが。

 「日本人」というのは、ひとつの「概念」でしかありません。その共通幻想を抱くことによって、自分の命を捨てたり、他者を虐殺したりするというのは、考えてみれば妄想に踊らされているのと同じことです。でも、世界中で、そういうことが当たり前に起こっているのです。
 「仲間が欲しい」「自分の基盤が欲しい」というのは、よくわかるのですが、それでいて「無神論者」なんて「科学の子」を自称するのは、矛盾しているのではないかなあ、と。
 「日本人」を語れるほどの「日本人」なんて、ほんとうはどこにもいないかもしれないのに。

 もし宇宙人が攻めてきたら、「我々はみんな地球人だ!」とか言い出すような予感がするんですけどね。