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2004年01月26日(月)
それでも、「愛することができない」人たち

読売新聞の記事より。

【22日付の英大衆紙「デイリー・ミラー」は、世界的な理論物理学者のケンブリッジ大教授、スティーブン・ホーキング博士(62)が、妻(53)から繰り返し暴行を受けていると報じた。
 博士は難病のため車イス生活を送っているが、博士の世話をしていた看護師が暴行を目撃したという。
 同紙によると、95年に再婚した妻は、博士の手首を車いすにぶつけて骨折させたり、ヒゲそりの際に首にケガさせるなど、暴行を繰り返しているという。
 同紙は19日付で博士が多数の傷を受けており警察が捜査していると報じたが、博士は20日、「事実無根」との声明を出していた。】

参考リンク:「身体機能の障害に対する私の経験」(ホーキング博士のホームページより)

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 イギリスの大学に在学中のこちらの方の1月22日の日記「学歴詐称とDV」に「去年、噂は聞いていた」という記載がありますから、ひょっとしたら「公然の秘密」みたいなものだったのかもしれません。
 上記参考リンクを読んでいただきたいのですが、スティーブン・ホーキング博士は、ALS(amyotrophic lateral sclerosis:筋萎縮性側索硬化症)という難病を患っておられるにもかかわらず、世界的な理論物理学者として活躍されており、「ホーキング、宇宙を語る」という本は、大ベストセラーになりました。もっとも、僕にはこの本の内容は高度すぎて、全く理解できなかった記憶があるのですが。それでも当時の僕には、ホーキング博士が、車椅子に座って首を傾けたまま、車椅子に備え付けのコンピューターで外界とコミュニケーションをとる姿には、大きなインパクトがあったのです。

 だから、僕はこのニュースを聞いて、なんだかとても憂鬱な気分になってしまいました。あの偉大なホーキング博士が、身内から虐待されていたなんて…
 もちろん、完全に事の真偽が判明したわけではありませんが、ホーキング博士が、あえて口をつぐんだり、否定の声明を出していることを考えると、かえって真実味があるような気もするのです。

 ただ、現実の「人間・ホーキング博士」の生活を考えると、奥さんも大変だろうなあ、とも思うのです。ホーキング博士は、自分の体を自分で動かすことはほとんどできませんから、すべての行動に介助が必要です。そして、専門の看護チームがついてはいるものの、やはり彼の妻には負担が大きかったはずで、いくら夫婦とはいえ「介護疲れ」が無かったといえば嘘になるでしょうし。
 「たとえ虐待されていたとしても、頼れるのは妻だけ」という状況であれば、ホーキング博士としても妻を告発するわけにはいかないでしょうし。「どんなに酷い目にあわされても、失いたくない人間関係」というのは存在するのです。
 ホーキング博士は、献身的な介護をされていた前の奥さんとアッサリ離婚して、現在の奥さんと再婚されました。今回のことは「報い」と考える人もいるかもしれません。

 「妻を失うくらいなら、虐待されていたほうがマシ」という人間関係は、あまりに悲惨なものではありますが、それもまた、悲しい現実なのでしょう。年齢的にも状況的にも「じゃあ次の奥さん」という気持ちにはなれないでしょうし。

 昨日テレビなどで話題になった、「食事をもらえなかった、体重24kgの15歳の子供」の話についても、「逃げたらいいのに」というような意見をあちこちで耳にしました。でも、現実問題として、15歳の子供に、そんな客観的な判断ができたのかどうかは疑問です。「親(=生きる手段)を失ってしまうこと」と「虐待されること」を天秤にかけて、「逃げようと思っても逃げられなかった」というのは、やむをえない気がします。
 「どうして行政は介入しなかったんだ!」と言われても、行政が介入することで少年が幸せになれたかと言われれば、それも甚だ疑問です。

 虐待しなければいい、というのは、まさしく「正論」です。
 でも、ホーキング博士の今の奥さんは、虐待しようと思って結婚したわけではないでしょうし、自分の子供を虐待しようと思って産む親だっていないはずです。
 でも、DV(ドメスティック・バイオレンス)は無くならない。
 それでも、博士は妻を、子供は親を頼るしかない。

 理想と現実の間には、悲しいほどのギャップがあります。
 「世界的な頭脳を献身的に介護する妻」と「常に身の回りの世話をしなければならず、自分の時間が持てない生活」
 「子供と仲良く、友達みたいな親子」と「言うことを聞かない、かわいくない子供」
 たぶんそういうのは、DVの現場にだけ存在するものではないはずで。

 僕は、「なんて妻だ!」「なんて親だ!」と感じると同時に、「でも、現実問題として『それでも愛することができない人たち』は、いったいどうすればいいんだろう?」とも考えてしまうのです。