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2004年01月25日(日)
「さびしさは鳴る。」

「蹴りたい背中」(綿矢りさ著・河出書房新社)より。

【さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりするしね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 19歳の芥川賞作家・綿矢りささんの受賞作の冒頭の部分です。僕がなぜか、この冒頭部分が気になって仕方がなかったんですよね。
 「さびしさは、鳴る」
 「さびしさ」というのは感情であって、見えたり聞こえたりするものではないはずです。だから「鳴る」というのはあくまでも「文学的な表現」なのですが。
 でもね、僕はこの「鳴るさびしさ」っていうのは、今の中高生(あるいは多くの大人たち)の共通項ではないかなあ、とも思うのです。
 具体的なイメージとしては、そう「携帯電話が鳴る音」。

 街のさまざまな場所で、僕たちは携帯電話で誰かと話したりメールを送ったりしていますし、他人がそうしている光景も頻繁に見かけます。
 「あんなに電話(もしくはメール)ばっかりやって、話すことがあるんだろうか?なんて感じることはないですか?

 もともと電話が苦手な僕などは、電話一本かけるのにもけっこう勇気と覚悟が要りますし、携帯が鳴るのは1日1回くらいのものです。全然かかってこない日もけっこうありますしね。
 でも、同じ職場の同僚の中には、しょっちゅう電話が鳴る人もいます。
 そんなとき僕は、「自分は友達が少ない人間なのかなあ…」なんて、少しだけ不安になります。
 誰かに携帯メールを送るときも、本当に用事があるときだけではなくて、「そろそろ何か送らないと、この人と疎遠になってしまうかもしれない」なんてプレッシャーにかられて、のことがけっこうありますし。
 逆に、そういうメールでのやりとりだけで、一応、その相手と「繋がっているような感じ」が得られるというのは、ある意味ラクなのかもしれませんけどね。

 僕のような携帯電話が苦手な人間でさえも、外出の際に携帯を持っていないと、なんとなく落ち着かないくらいですから、いまや携帯は生活必需品のひとつです。
 たぶん、実際は、携帯電話のユーザーのすべてが、本当に緊急の連絡の必要性があって持っている、というわけではないのでしょうが、一種の精神安定剤のようなものなのかも。

 たいした用事でもなさそうなのにしょっちゅう電話をかけたり、電話がかかってきている人を見るたびに、僕は、「この人は、さびしがりやなんだろうなあ…」なんて思います。
 その反面、自分から電話をかけることは滅多にないのに、自分の電話がほとんど鳴らないことを妙にさびしく感じる僕もいるのです。


 「さびしさは鳴る。」
 それはたぶん、携帯電話の音?
 この最初の一文に、僕はそんなことをイメージしてみるのです。

 そして今日も、さびしさは鳴る。