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2003年12月29日(月) ■ |
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「記録に残すこと」と「記憶に残ること」 |
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「僕の生きる道」(橋部敦子著・角川文庫)のあとがき「中村先生に教わったこと」で、ドラマの主役・中村秀雄先生を演じた草なぎ剛さんが書かれていたコメントの一節です。
【余命を宣告されてから、中村先生は何かこの世の中に生きていた痕跡を残したくて、ビデオ日記をつけていきます。でも、途中で止めてしまうんですね。それどころか、みどり先生との結婚式の写真さえも撮ろうとしません。 僕もあまり写真とか撮らない人で、結婚式の写真を撮らなかったところで中村先生が、「今、この瞬間の出来事が、いつか過去になってしまうと思いたくなかった」という気持ち、すごくよくわかるんですね。僕の中での核心をついてる。何かを残したいという欲望は、人が本来持っているものだったりします。僕はまだ余命五十年だと思っているから、写真に残すことがピンとこなくて、記憶に残るほうが素敵なような気がするのかもしれません。】
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今のところ、人間として生まれたものには、「死」というのは避けがたい宿命です。そして、多くの人は「死んでしまえば、すべてがおしまいになる」と思いつつも、「自分が死んだ後に、何かを残すこと」を望んでいるのです。 借金なんか残されたらあとの人間は迷惑するだけですし、財産を遺せば感謝されることはあるかもしれませんが、少なくともその人が生きている間の記録(写真とかビデオとか、手紙など)というものは、よほど歴史的に価値がある人物のものでもない限り、いつかは忘れ去られていくものです。 古代エジプトでミイラになった人などは、まさか自分たちが未来に貴重な研究材料として、ある意味「見世物」にされてしまうなんて(粉末にされて、薬の材料にされてしまうこともあったようです)、夢にも思っていなかったのでしょうし、「遺そうとすること」が、必ずしも本意に沿った形になるかどうかもわからないところがあるのですが。
確かに、「やたらと記録を残したがる人」っていますよね。例えば結婚式で、ずっと写真ばかり撮っていて落ち着かず、「この人はカメラマン?」と疑っているような人とか、子供の運動会で、ずっとビデオを回している父親とか。 僕はそんな光景を見るたびに、「体験すること」を放棄して、「記録すること」ばっかりに夢中になっても仕方がないんじゃない?とか思ってしまうのです。記録をとることで満足してしまって、結局はその記録は生かされることがなくなってしまうのではないかと。 「いつでも観られる」と思って録ったビデオや「いつでも読める」と思って買った本、近くに住んでいて「いつでも会える」と思いながら、いつの間にか疎遠になってしまった友人など、「記録している安心感」というのは、ときに人間を油断させてしまう面もあるのです。 もちろん、夫婦が結婚式のことを思い出したり、人類の歴史を振り返るためには「記録すること」というのは非常に大事なのですが、「記録」されているからといって、どのくらい僕たちが真実を理解できているかというのは、なんとも言えない気もします。理解の助けになる面もあるでしょうが、先入観に流される原因にもなるでしょうし。
僕も写真を撮ったり、こうやって文章を書くことは大好きです。 でも、その一方で、「こうやって記録することにばかり時間を費やしていったからといって、何か遺すことができるのか?」という疑問を抱くことも多いのです。 「現在」を記録として遺そうとするあまり、「現在を生きる」というのに対して、あまりに客観的になりすぎてしまっているのではないか?なんて。
「本当に憶えておくべきことは忘れないし、忘れてしまうということは、それだけの価値しかなかったんだ」という考え方があります。確かに、人生なんてそんなものかもしれません。 「記録」として残したつもりでも、結局、その記録の存在を認識しているものは、ごくごく一部なわけですし、どんなに写真を撮る人でも、大事にして傍に置いている写真というのはそんなに多くはないはずですから。
「記憶」も「記録」も、いつかは失われてしまうものです。 でも、「記録するためだけの人生」なんて、つまんないですよね。 僕が、僕の大事な人、大事だった人のことをどれだけ理解しているか、なんて考えると、「何かを遺そうとすること」なんて、虚しいことなのかもな、なんて絶望することもあるのです。
でもね、30を過ぎて、僕はときどき、自分の両親の言葉をふと思い出すのです。あれはああいう意味だったのかな、なんて。その当時はまったく理解不能で、反発しか感じなかったことなのに。
「伝わらないようで、伝わっていること」って、形には遺っていなくても、けっこうたくさんあるのかもしれませんね。 逆に、「伝わっているようで、伝わっていないこと」というのも、たくさんあるんだろうけど…
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