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2003年12月08日(月)
英傑項羽、2200年間の濡れ衣

読売新聞の記事より。

【6日付の中国各紙によると、秦の始皇帝が造営した大宮殿「阿房宮」(中国陝西省西安市郊外)は、定説と異なって、楚の武将、項羽に焼き払われてはいないことが、中国社会科学院考古研究所と西安市文物保護考古研究所が共同で実施した発掘調査で明らかになった。

 約1年間にわたって、20万平方メートル以上を調べたが、大量の灰や焼けた土など火災があった痕跡は発見されなかったという。阿房宮は紀元前212年、始皇帝が渭河の南に建造を開始した大宮殿。秦代末期に項羽が侵入し、3か月炎上したといわれ、これまで度々歴史小説の題材になってきたが、項羽によって焼失した事実はなかったことになる。

 新華社電によると、今回の調査では、始皇帝在位中に完成したとされる阿房宮の前殿部分の基本構造や範囲など輪郭が初めて判明した。前殿の土台は東西1270メートル、南北426メートルで、総面積は54万1020平方メートル。専門家は「今回の重大発見は中国史上最大規模の建築群の1つ、阿房宮の謎を解く上で重要な資料を提供してくれた」と意義を強調している。】

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 まさか、この新華社電も「捏造」なんてことは…と、最近歴史が信じられなくなっている僕などは思うのですが、でも、そんなことを現在捏造することには何のメリットもないでしょうから、これはおそらく事実なのでしょう。
 記事の中にも出てきますが、「楚の武将・項羽は、秦の都に到着すると(これには、ライバルであった高祖劉邦に先を越されてしまっていた、という背景があるのですが)、秦の都を焼き払い、略奪の限りを尽くした」という中国史上有名なエピソードがあり、そういった暴挙に対する人々の反感が、後に項羽の没落とライバル劉邦の台頭につながっていった、というのが、歴史の「定説」でした。
 少なくとも、僕が今まで読んだ「漢楚の戦い」には、みんなそのように書いてあったと記憶しています。
 その項羽の暴虐エピソードの中でも、「秦の兵、数十万人を生き埋め」と「秦の見都で阿房宮に火をつけ、街を略奪三昧」というのは、もっとも有名なものでしょう。
 でも、こうして現代の科学で歴史を検証してみると、必ずしも100%事実でないこともあるわけで。
 そもそも、現代語られている「漢楚の戦い」についての原典ともいえる、司馬遷の「史記」だって、漢の武帝時代に書かれたものですから、それが実際に行われた時代から100年くらい経ってからの記録なわけです。今みたいに記録が豊富でなかった時代ですし、いわば「敵役」の項羽の事跡ですから、悪い方に脚色せざるをえなかった事情もあるでしょうし。
 それに、歴史上の人物というのは、それぞれの時代の「現代人」にとって、解釈が異なってきます。
 例えば、楠木正成という人などは、太平洋戦争までの日本では「忠臣」の代表格として尊敬されていました。でも、現在では、楠木正成と言われて、どんな人だか思い出せる人は少ないのではないでしょうか?

 現代で言えば、田中角栄さんなどは、生前は汚職まみれの政治家という感じだったのに、最近では「平民宰相」というような評価もあるようですし、横山やすしさんなども、リアルタイムでは「漫才の天才」というより「困った人」という印象のほうが強かった記憶があるのに。

 ましてや、歴史上の人物の実像なんて、僕たちが抱いているイメージとは全然違うものなのでしょう。
 秦の始皇帝についても「暴君の代名詞」だったのが、「混乱の中国を統一した英雄」というような評価が増えてきていますし。

 まあ、逆に全くのフィクションだらけというのも考えにくいので、項羽にそういった粗暴な一面はあったのでしょうが…

 歴史には、「事実」はあっても、「真実」は存在しないのかもしれません。
 そうやって歪められていくのも、歴史の怖いところであり、面白いところではあるんでしょう。

 それにしても、焼かれていなかったとしたら、そんな壮大な建物がどうして歴史から消えて埋もれてしまったのか、それもまた謎。