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2003年11月25日(火) ■ |
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「もし世界が210人の小さな町だったら」 |
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共同通信の記事より。
【米カンザス州にある人口210人の小さな町ギューダスプリングスの議会がこのほど、町内の全世帯に銃と弾薬の所持を義務付ける条例を可決した。24日付の米紙ニューズデーなどが報じた。 同紙によると、この種の条例は米ジョージア州の町で21年前に可決されたケースがあるものの、極めて異例。 条例は町議会議員5人のうち3人の賛成で可決された。従わない場合は罰金10ドルが科せられると規定、身体障害者や生活保護世帯などは除外される。 町には常駐の保安官がいないため、賛成議員の1人は「各家庭が銃を持つことで住民の安全を守ることができる」と主張する。 しかし、町を管轄する郡の保安官は部下の安全を懸念すると表明。町の顧問弁護士も「治安対策には効果がない」と条例の撤回を求めている。】
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ごく一般的な日本人であれば、この話を聞いて、「バカだなあ」と思うのではないでしょうか?「みんなが銃を持つようにするよりは、みんなが銃を持たないようにしたほうがいいんじゃない?」って。 アメリカ人の一部には、銃という武器が、「自分で自分の身を守るという開拓者精神の象徴」であるという考え方が根強くあり、銃規制についての論議が何度も出てきながらも、なかなか完全規制の方向には進まない、というのが現状のようです。
「相手が銃を持っているかもしれないから、自分も銃で身を守る」という考え方は、物騒ではありますが、確かにムチャクチャとはまでは言い切れないところもありますし。
誰でも子供のころは、こんなふうに思ったことがあると思うのです。 「もし、世界中のずべての国が一斉に武器を捨てて、誰も武器を持たないことにすれば、戦争なんて起こらないのではないか、と。 僕がこの素晴らしい思いつきを親に話したとき、父親は「まあ、そうなんだけど、現実というのは、なかなかそううまくはいかないんだ」というような曖昧な返事をして、僕にはそれがとても不満だったのを覚えています。 まあ、僕もこの年になれば、それが理論的に正しくても、現実にはうまくいかないんだろうなあ、とは思いますが。
みんなが武器を持っていなければ、自分だけ武器を持って優位に立とうとするのもまた、人間の悲しい性なのです。 そうして誰かが武器を持てば、周りの人もそれに対抗するために武器を取っていくでしょう。 たとえば、日本で何かちょっとしたトラブルがあっても、相手がいきなり銃で撃ってくるなんてことは、まず想像できませんよね。 でも、「みんなが銃を持っている社会」では、ちょっとしたトラブルでも当事者は「撃たれるかもしれない」という予測をするはずです。 そうすると、誰だって自分の命が大事ですから「撃たれる前に撃たなくては」と考えるのは当然のこと。 要するに、武器を持つ人が増えることによって、人間はさらに疑心暗鬼になっていくのです。 そして、撃たなくてもよかった相手を撃ってしまうようになり、お互いにより優位に立つために強い武器を求めていき、結局は「ふりだしにもどる」。
「日本を争いの解決方法として、『武力』という手段を行使することができる、あたりまえの国にしよう」 「アメリカという強大な『同盟国』に従って何でもやらないと、日本は生き延びていけない」
そういう思考法が、最近の日本の常識化してきているようなのですが、それは、本当に正しいことなのでしょうか? 目先の「安全」や「安心」を得るために、長期的な視野を失っているのではないかなあ、と僕は思うのです。
アメリカに従ったり、イラクに自衛隊を派遣することは、短期的には日本の安全を保障するものかもしれません。 でも、せめてそういった「おつとめ」を実行しつつ、その一方で軍縮や相互理解のための長期的な働きかけを行っていくくらいのしたたかさがあってもいいのではないでしょうか?
「みんなが銃を持っていない町」と「みんなが銃を持っている町」のどちらが安心して暮らせるかなんて、子供にだってわかるはずなのに、町の規模が大きくなってしまうと、立派な大人でもそれがわからなくなってしまうんですよね。
「もし、よその町から銃を持った奴がやってきたらどうするんだ?」 そう、確かにその通り。でも、想像しはじめたら敵なんていくらでも出てくる可能性はあるわけなんですよね。宇宙人だって、攻めてくるかもしれない。 どこかで一線を引かなくては、きりがないことなのは明白なのに。
「もし世界が100人の村だったら」という有名な本がありましたが、現代の世界は、間違いなく、この210人の町なのだと思います。 少なくとも、僕は彼らを「時代錯誤だ」なんて笑えないなあ。
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